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zoom RSS 『南極測量旅行記』『やまと隕石の拾得』『村山氏追悼』『ブルとホセの生涯』

<<   作成日時 : 2007/04/10 13:00   >>

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(南極-1969回顧)『氷床の流れを調べる測量旅行記』

                                  成瀬廉二

1.南極の氷は増えているか、減っているか?

 日本が南極観測を開始した1956年前後の頃、南極の氷に関する最も重要と考えられていた課題は「南極の氷は増えているか、減っているか?」ということであった。実は、南極の知見が何十倍から何百倍も増え、観測技術が格段に進歩した半世紀後の今日においても、この御旗は色あせることもなく、将来の地球温暖化−海面上昇との関連において、解明すべき喫緊の研究課題に位置づけられている。

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    写真1.南極白瀬氷河 (Photo by T. Sawagaki, 1993/94)

 氷床は、その上に雪が積もって養われ、氷が流れ氷床の端が割れて氷山が生産されることにより消耗する(これを氷床の水収支、または質量収支という)。したがって、氷床の拡大または縮小を調べるためには、氷床への収入としての降雪量分布、支出としての氷床流動速度分布を測定することが必要である。この「氷の流れ」を調べることが、本測量旅行の目的である。

2.ポスト極点旅行の内陸調査計画

 私が北海道大学を退職して郷里の鳥取に転居する直前の2006年3月、毎日の主要な仕事は、研究室の書棚、物入れ、ダンボール箱の中に保管されていた過去40年程の諸々の書籍、報告書、文書、資料、書簡、データ、図表、野帳、地図、写真、フィルム、テープ等々を、「破棄」と「保存」に仕分けるという、一見単純ではあるが神経と労力を要する作業であった。その折、破棄を免れた文書の中に、手書きで変色した青焼きコピーの計画書があった。
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        図1.エンダービーランド計画書の表紙
          
 その表紙を図1に示すが、タイトルには「エンダービーランド地域雪氷学的長期調査計画」、日付は1968年1月となっていた。日本南極観測隊の内陸活動は、第9次隊の極点旅行までは広域の探検的調査であったが、ポスト極点は雪氷学的精査が期待され、それにしたがって立案された内陸調査計画であった。

 エンダービーランドとは、昭和基地から極点に向かうルートの東側に広がる地域を指す。本計画は、エンダービーランドおよびその周辺(やまと山脈を含む)地域において、基盤地形、水収支、気候的調査研究を行う、というものであった。期間は、10次隊(1969年)を初年度とし、15次隊で完結させる6年計画とした。

3.氷床の流動をどうやって測るか

 計画を立案した雪氷研究者グループおよび10次隊の内陸調査メンバーの中には、南極氷床はもとより山岳氷河の精密流動測定の経験者は一人もいなかった。さらに測量については、みなポケットコンパスと巻尺による簡易測量程度しか経験のない素人であった。

 そのため、私たち10次隊の内陸調査メンバーの5名(安藤久男、吉田勝、小元久仁夫、成瀬廉二、上田豊)は、国内の準備段階にて数日間の合宿を行い、国土地理院の専門家(増田実ほか)から講義を受け、測量(角度、距離、天測)の実習を行った。
この講習と打ち合わせの過程で私たちが採用することにした測量方法は、三角形が鎖のように横に長く連なる三角鎖測量である。この測量の利点は、三角形一つずつ内角の和が180度から許容値を超えてずれた場合は、その三角形の測量をやり直すことができることである。さらに、このようにして三角形を1個ずつ増やして行き、約20個毎に1つの辺の長さを精密(電波)測距儀にて測定し、三角測量のデータから計算により求められた距離の正確さをチェックできる。また、太陽方位角観測により辺の方位の大きな誤差累積を未然に防ぐことを目指した。

 採用した測量法は、国土地理院の四等三角測量に従うが、我々の技量を考慮して観測の制限をやや緩めたものにした。使用した測器は、角度測定には世界的に普及し信頼度の高いウィルドT2 経緯儀、距離測定には現代の光波測距儀に比べると格段に取り扱いが煩雑な電波測距儀(エレクトロテープ)であった。

4.難航した三角鎖設置の測量

 1969年11月24日、10次隊内陸旅行パーティー(安藤リーダー:全10名)は、極点ルート上の南緯72度からやまと山脈へ向って三角鎖測量を開始した。雪上車は4台、人員の配置は次の通りであった。KD605号車(安藤*、吉田*、前田祐司#、木村征男:写真2)、KD606(小元*、石渡真平#)、KC14(上田*、八木実#)、KC15(成瀬*、吉川暢一#:写真3)。*印が測量担当、#印がドライバー兼測量アシスタントであった。測量以外に、小元がアイスレーダによる氷厚観測、吉田がラコステ重力計の測定を行った。

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   写真2.旅行準備中、昭和基地付近の海氷上の軟雪に埋まったKD605号雪上車.

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   写真3.KC雪上車の天蓋からルートを探す吉川.

 この4台の雪上車がお互いに見通せる位置(2〜5キロメートル程度)を保ちつつ、菱形のような陣形で移動した。3つのグループが三角形の各点にて測量をしている間に、残りの1グループが次の新たな測点に移動する。各測点にて必要な観測が終わるとトランシーバーにて安藤リーダーへ連絡する。一つの三角形の内角の和が180度±20秒以内に収まっていることを確認したら、安藤が1つのグループに「移動して良し」と通報する。

 この測量作業の経過は、10次隊が越冬を通して休みなく365号まで発行したガリ版刷り日刊ミニ新聞「S10トピックス」に、何回か掲載された。そこには、当時の関係者(私)による現場からの生のレポートを見ることができる(以下、抜粋)。

『1969年12月7日(成瀬特派員発):南緯72度線を”やまと山脈”に向けて出発してから10日経った。歩みは牛の如く、かせいだ距離は約100キロメートル。初めの一週間はすべての点がうまく行かなかった。この付近は予想以上に起伏が多い。見通し距離が1キロメートル以下のこともあり、そんな場合は一日に数キロメートルしか進めない。また測量器具が寒さのため調子が悪くなったりする。しかし、11月下旬から天候が安定してきたことも幸いして徐々に調子にのってきた。この測量を続けて”やまと山脈”へぶつける計画に一時は赤信号がでかけたが、今は何とかメドがついた。地吹雪が比較的強い午前中を避けて13時出発、24時頃キャンプ地到着という行動が続いている。』(写真4)

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        写真4.ブリザードの地吹雪に埋まった燃料(ガソリン)そり.
写真左は吉田、右は上田.右奥はKC15雪上車.左遠方の幌付そりは、吉川作成の移動式簡易トイレ.

 測量器具が故障したら、素人には修理できないので致命傷である。不調の機器をストーブで暖め、乾燥させると回復した。

『12月18日:ついにやまと山脈が見えた。基地を出てから47日ぶりにしてとうとうやまと山脈のすぐ近くまで来た。ルートマップによれば直線距離にして山脈まであと40キロメートルほどである。山脈に近づいてから急にクレバスが多くなってきた。』

5.やまと山脈が測量のゴール

 三角鎖測量は、最初か最後に、山脈の露岩上の不動点に連結させる必要がある。もし日程不足により三角鎖の端が山脈まで到達できないと、氷床の流動速度が得られず、それまでの苦労が水泡に近くなってしまう。

『12月25日:やまと山脈のほぼ全容が目の前に見えている。最初にとりつく予定のA群まであとほぼ10キロメートル。話に聞いていた通りクレバスが非常に多い。十メートル以上のクレバスにもしばしば出会って迂回した。クリスマス頃にはやまと山脈へつけるのだろうとの予想に反して、1〜2日遅れることとなった。山脈を目前にしてホワイトアウトと地吹雪に見舞われ、今日は連続4日目の停滞日。』

 12月31日、風がやや穏やかとなり、A群の露岩上に基準点(写真5)を設置することができ、ついに三角鎖測量は完結した。東西総距離240 km、三角形の数162個に及んだ(図2)。

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    写真5.やまと山脈南部の露岩上の基準点(測点1か2)における角度測定.

 頂部に赤い円筒が付いた大きな三脚は、他の測点から測量するとき視準するための目標.その円筒中心の鉛直直下に測量器を設置する.測量者の後においてある機器がエレクトロテープ.写真奥の露岩がもう一つの基準点(測点2か1).

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                    図2.三角鎖の配置図.

 測点1と2がやまと山脈南部の露岩に設置された基準点. 実際の測量作業は、測点164、163から番号が若い方向に進む.測点1から13の間は、三角形の配置が複雑になっているが、これは地形の激しい凹凸とクレバスの分布のためである.

 測量後、やまと山脈のベースキャンプに集う旅行メンバーを写真6に示す。

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         写真6.やまと山脈D群福島岳ふもとのベースキャンプ(1970年正月).
 前列左から安藤、石渡、八木、上田、吉田、後列左から前田、小元、吉川、成瀬.撮影は木村カメラマン.

 数年後、この三角鎖を同様な方法で再測量を行えば、その間の氷床流動速度分布が求められる。

 そして実際に、1973年12月20日から翌1月16日にかけて第14次隊により測量がほぼ完璧に成功し、白瀬氷河流域氷床の動的状態に関する詳細な知見が得られたのである。これについては、別の機会に述べよう。

[2006.6執筆、「南極観測隊」(技報堂、2006.11)の原稿を下地に、2009.4加筆、改稿]

        [筆者]当時、北海道大学低温科学研究所
             現在、(NPO法人)氷河・雪氷圏環境研究舎
                   URL: http://www.npo-glacier.net/

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 [回想] やまと隕石第1号の拾得

                        成瀬 廉二

{本稿は、北大低温科学研究所の広報冊子「低温研ニュース」No.21(2006年6月)に寄稿した「氷河と私:三話」のうちの一話『南極やまと隕石1号発見の顛末』を若干加筆、改稿したものである。本文で述べるように、当時は隕石を探そうとか、あるかもしれないと思っていたわけではなく、単に"何気なく拾った石"が、帰国後、隕石であったことを知らされたのである。したがって、現場の私としては「隕石を発見」したつもりはないので、本[回想]のタイトルは「南極やまと山脈近辺の裸氷域における石ころの採取」が最も妥当と考える。しかしこれでは、普通の人は読んでみようとは思わないし、仮に読んだとしても本文の最後になるまで意義が不明であるので、後日名づけられた「やまと隕石第1号」のキーワードは含めることにした。
 なお、本稿執筆時は、第10次隊が採集した隕石の個数は11個とされることが多かったのでそれに従ったが、現在は9個ということに全関係者が認識している。        (2011.4.12) }


 1969年12月下旬、私たち第10次南極観測隊の内陸旅行班10名は4台の雪上車に分乗し、氷床の流動速度を測定するため三角測量をしながらやまと山脈へ向けてゆっくり走っていた。数日前から、前方の地平線にやまと山脈の露岩が見え始め、それが日に日に少しずつ近づきつつあった。雪面は、雪から徐々に氷に変わり、それにともないクレバスも現れるようになってきた。4台の雪上車がお互いに見通せる位置を保ちつつ、菱形のような陣形で移動していた。
 その時私は、吉川暢一ドクター運転の小型雪上車の助手席の椅子の上に立ち、天蓋から顔を出し、クレバスの方向と大きさに注意しつつ、次の最適な測量点を探していた。ふと雪面に黒いものを見た。牛の糞が凍って丸く固まったような感じがした。近づいてよくみると、小児のこぶし大の"石"だった。ただの石ころだと思ったけど、車から降りて珍しそうにじっくり観察した。砕けた岩屑のように鋭い角がなく、溶岩のように表面が少し溶けたようにも見えた。
 11月初めに昭和基地を出発し、12月に入ってからは新しい未知のルートを進んできた。何回も通る"街道"を走っているときは、ところどころに空ドラム缶が置かれていたり、雪尺や測器が設置されていたり、車の汚れたオイルやゴミ、廃棄物が捨てられていたり、何らかの人為的な物体が目に触れる。しかし新ルートでは、視界の中に入る物は雪か氷しかない。空には雲も見えるが、これも氷の粒だ。鳥も内陸のここまでは飛んでこないので、糞も落ちていない。山脈の下流側なら、露岩から削られた数多くの岩屑(モレーン)が氷のベルトコンベアーに乗って帯状に氷を被うことがある。しかし、この"石"を見たところはやまと山脈の上流側であった。
 
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 図.やまと山脈旅行ログノートの1969年12月21日のページの一部.
   13:00GMT頃、測点C-Vから300 m地点にて石ころ拾得.

 「何でこんなところに石があるのだろう?」と思い、フィールド手帳に簡単なスケッチとメモを書いた。石ころは下半分は氷に埋まり、上半分が露出していた。氷は気泡が非常に多く、メモには「blue ice or depth hoar ice」と書いてある。つまり、「青氷、または霜ざらめ雪が氷化したもの」と思ったようだ。また、「ρ≒ 0.7 (?)」とあった。これは、氷の密度が約0.7 g/cm3ということを示す。すなわち、完全には氷化していない固い雪ということになるが、本当のところは分からない。
 石ころを見つけた時、私は現場の状況写真を撮っていない。ただの石をわざわざ写真に撮ろうなんて思うはずはなかったのだ。すぐにその"石"を拾い、ポケットに入れ、念のためにピッケルで30 cmほど氷を掘り、ほかには石がないことを確認してその場所を離れた。
 毎日、朝と夕の食事時には、カブースという橇の上の木製の小屋(ダイニングキッチン)に全メンバーが集まる。"石"を拾った日の夜、カブースに入るとすぐ地質担当の吉田勝氏に「これ隕石じゃない?」と言いつつ無造作にポケットから取り出した石を渡した。もちろんその時私は隕石についての知識はほとんど持っていなかった。ましてや、南極の氷の上に隕石が落ちているなんて思っても見なかったことである。とっさにこういうことを言ったのは、先輩の吉田氏をからかってやろう、ということであった。彼はその時、「うーん」と言ったまま、多くを語らなかった。そして翌日の朝食時に、「隕石の可能性があるので、それらしい石を見かけたら拾って下さい」と、吉田氏は全員に告げた。その結果、私たちのパーティーで合計"11個の石"を収集した。 
 帰国後、それらのサンプルは専門家の下へ届けられ、分析の結果、すべてが隕石であることが判明した(ただし、極地研の公式記録では9個となっている。その差2個は、紛失、または記録漏れ等、ミステリーだと吉田氏は述懐している)。その後、日本南極観測隊では数回(年)にわたり隕石の集中探査を行い、2000年の第41次隊までに総計16,728個の隕石を南極で発見、採集されている(南極・北極の百科事典、2004)。
 その隕石第1号を私たち、中でも私が拾ったという"栄誉"は、今まで(北大退職時の最終講演まで)公の場では一度も口にしたことはなかったし、印刷物に書いたこともなかった。それは、そういう機会がなかったこともあるが、自分は別の専門に没頭していたこと、仮に私が拾って届けなかったとしても後日別の人が別の"石"を拾ったに違いなく、第1号の"拾得者"として記録されるべきものでもない、と思ったからである。
      (2006年5月30日、記)

  
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(南極倶楽部会報、村山雅美追悼号
        『南極で2度お会いした村山さん』 
      
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   写真1.昭和基地と海氷上のペンギンたち(1969年1月頃)

 村山さんに初めてお会いしたのは、第9次南極観測隊にて極点旅行を完遂しS16からヘリコプターで昭和基地へ帰還した1969年2月15日であった。その時私は第10次隊の越冬隊員で、昭和基地の建設作業を終え、観測器材や私物の整理を始めていた頃であった。ヘリポートまで出迎えに行ったかどうかは記憶がないが、昭和基地帰還後ただちに屋外で歓迎会が開かれた。

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   写真2.昭和基地に帰還した村山雅美隊長(中央)。1969年2月15日。

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   写真3.ダルマに目を入れる村山隊長。左から、蜂須賀弘久、村上捷征、小林昭男、
川崎巖、遠藤八十一、柿沼誠一、楠宏隊長。

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   写真4.極点旅行隊歓迎パーティー。中央:村山隊長、周囲に10次隊の顔が見える。

 その日の夕食時、昭和基地の食堂で、9次隊調理の小堺さんがものすごく嬉しそうに新しいネタで鮨を握って極点隊員にふるまっていた光景が、今でも鮮明に思い浮かぶ。
 翌日は、9次−10次隊の内陸引継ぎミーティングを行い、地理の藤原さんからナビゲーションや雪氷観測の引継ぎを受けた。私たちとしては、さらにいろいろお聞きしたいことやアドバイスを得たいことがあったのだが、村山さんにとっては近郊の山の登山計画程度に見えたと思われ、すべてにわたり「問題ないでしょう」との一言だったような気がする。

 2回目にお会いしたのは、第14次隊にてやまと山脈方面の内陸旅行の帰途、昭和基地まであと250km程度のZ40においてだった。1974年1月26日、第15次隊長の村山さんから、「セスナでそっちへ向かう」との連絡が入った。同日午後、私たち旅行隊が待機する上空をセスナ機が通過した。その直後物資を投下したように見えた。突然、機体は急に降下を始めた。「あー、どうしたんだ」と思う間もなく、セスナは雪面に対し45度の角度で突っ込み、サストルギの影に消えた。その瞬間は、「大事故」を確信した。
 直ちに、雪上車で駆けつけた。セスナから降りて歩いてきたのは、村山さんと副隊長の村越さんだった。「いやー、落下傘が脚に引っかかっちゃったんだ」との第一声。まずは無事を祝い、再会の挨拶を交わした。物資は、生鮮品と日本からの便りだったと思う。その内すぐにパイロットに呼ばれて、村山さん等はセスナ機に戻った。エンジン音はするが、機体のダメージは大きいはずなので、「どうするのだろうか」と見守る中で、サストルギの起伏の多い雪面をガタガタと滑走して飛び立って行った。

 
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       写真5.内陸氷床上を離着地するセスナ機(1973-74年)。「事故」時の写真かどうかは定かではない。

 墜落に近い着陸をしても壊れないセスナと、何事もなかったように操縦して行ったパイロットにいたく感心した記憶がある。しかし、後に話を聞いたり報告を読むと、当然ながらかなり際どいアクシデントだったようである。

              (成瀬廉二:第10次越冬、第14次越冬、第34次夏隊:
                            現在、NPO法人 氷河・雪氷圏環境研究舎)

  [南極倶楽部会報、第23号:村山雅美追悼号(2007年6月)より転載。ただし、写真を追加した]

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『ブルとホセの生涯』

                           成瀬 廉二

はじめに
 一般市民にとって「南極」から連想される事がらの第1位は「寒さ」、第2位がペンギンまたは犬ではないかと思う。特に、映画『南極物語』(1983年)とテレビドラマ『南極大陸』(2011年)のいずれも、主人公は隊員のモデルあるいは作り上げた架空の人物であったが、ストーリーの主軸はタロ・ジロを中心とする犬たちであり、これらを観賞した人々には、「南極=犬」が強く印象づけられているようである。
 事実、筆者も多くの人から「南極では今でも犬橇を使っていますか?」、「今も、昭和基地に犬はいるの?」、「基地ではペットとして飼っているのでしょう?」などと何回か尋ねられたことがある。
 
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         写真:昭和基地におけるタロ・ジロ・トチ
        (3次4次交代期:1960年1月頃:吉田栄夫*撮影)

 タロ・ジロ(写真)は有名だが、我が10次隊がともに暮らしたブルとホセについては、いきさつや終末が関係者以外にはほとんど知られていない。1991年に採択された環境保護に関する南極条約議定書にて、南極地域への外来生物の持ちこみ禁止が明文化されたため、南極観測隊に同行した犬はブル・ホセが最後となった。
 ブルやホセについて記述された資料は必ずしも多くはないが、筆者が調べることができた限りにおいて、ブルとホセの生涯を小史としてまとめたので、10次隊越冬記録の1節として公開したい。

南極へ移住
 ブルとホセが日本を発ったのは1965年11月のことで、南極観測再開の7次隊に連れられ、1966年1月から昭和基地に居を構えた。木村征男『南極越冬新聞』によると、「ブル・ホセの兄弟犬は、7次越冬隊が生物研究用備品として連れてきたものである」とのことである。7次隊には生物担当隊員(松田達郎)が越冬していたので、何らかの「研究」を計画していたのかもしれない。しかし、1年後、このブル・ホセを引き継いだ8次越冬隊の吉田(栄)は、「ブル・ホセが生物実験用に使われたということは、なかったようです。村山さんが、いろいろ慮って、そのような名目にしたのでしょう。問題がありそうだったので、詳しくは聞くことを躊躇しました」と語っている(吉田、私信)。
 さらに吉田の証言により、ブル・ホセの“出生の秘密”が明らかとなった。それは以下のようなものである。吉田が4次隊の往路ケープタウンで、ベルギー隊からグリーンランド・ハスキーの小さい子犬をプレゼントされた。吉田は4次夏隊の犬係(芳賀良一:生物)の指導の下、宗谷船内で4時間おきにミルクを飲ませて育てた。ベルギー隊から「ベルジカあるいはベルガと呼んでくれ」と言われたこの犬は、4次隊にて越冬後日本へ連れて帰り、さらにその1年後村山**が帰国した後は夏に山荘で飼ったりしていた。吉田は、「その血をひいているのが、ブルあるいはホセだったと思います」と言う。
 Belgicaは、19世紀末の南極探検船の名前にもなっているので、女性の名であろう。そうすると、ブルまたはホセ、あるいは両者とも、グリーンランド・ハスキー犬を母とし、樺太犬の父との、すなわちヨーロッパ系とアジア系との混血である。

ブル昇天
 ブルとホセは、この2匹のみで、7次、8次、9次隊で越冬した。もちろん、犬橇として使われることはなかった。

  
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     昭和基地のブル(1969年3月頃、吉川暢一撮影)

 10次隊の越冬開始(1969年)間もない頃から、ブルは元気がなくなった。足が痛いのか、いつも前足か後足の1本を地面から浮かせていた記憶がある。『南極越冬新聞』には、「4月6日、安藤、上田両隊員がネスオイヤ島へ散歩に連れ出したのを境に、急に衰弱がひどくなってきた。ほとんど歩けないところから、吉川ドクターはレントゲンをとってみたが骨に異常はない」とある。
そして、4月12日付『S10トピックス』No.51は以下の様に報じた(復刻版より)。
「我等の大先輩ブル公が、今朝方静かに昇天した。
各人それぞれ思い出もあろう。その思い出を胸に、ブル公の昇天する煙を見つめる目が、思いなしかうるんでいる人も多かった。神もまた、ブル公を迎える美しい雪を蒔き、彼の生前の罪を許したもうたであろう。
あゝブル公よ・・・。寂しく吠えるホセに幸い多きことを祈る。(Ko)」
同日午後、ブルの告別式が喪主(犬係)渡部により天測点下でとり行われ、荼毘に付された。『10次隊越冬日誌』(石田・蜂須賀)の4月12日欄には「ブル死亡(告別式行う)享年7歳9か月」と記されている。年齢が随分詳しいが、日誌の記録者であった石田恭市(気象)は7次越冬隊の犬係でもあったので、ブル等の「身分証明書」か「備品の登録書」を所持していたのかもしれない。なお、享年は数え年で言うのが普通だが、この場合は月まで付しているので満年齢と思われる。そうだとすると、ブルの誕生年月は1961年7月となる。母親ベルジカが帰国したのは1961年3,4月なので、すぐ相方が見つかったとすれば、日数の計算は合うようだ。

ホセ大往生

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            昭和基地のホセ(1969-70年頃、吉川暢一撮影)

 ホセはその後数年間、孤独に耐えて昭和基地で過ごした。11次隊のホームページには、「可哀想なホセ」として写真が掲載されている。
14次隊で筆者はホセと再会しているはずだが、全く記憶にない。10次および14次隊にてブルやホセを撮った写真は、白黒か、ネガかポジのフィルムの状態ならどこかにあるのかも知れないが、手元では見つからない。
吉田(栄)は、「15次越冬隊では森脇君(地学)が可愛がっていました。私が16次夏で昭和基地を訪れたとき、ホセは私を覚えていたようです」と述懐している。もしこれが本当なら、面影か、音色か、匂いによるのか、犬が7年も主人の記憶をとどめていたとは凄いことである。
 Kaoruと称する人のホームページに「お父さんの南極体験」というページがあり、17次越冬隊の機械担当隊員(氏名不詳)がホセについて綴っている。以下、その一部を抜粋して示す。
「昭和基地には、ホセと名付けたアイドル犬がいました。(略)ホセは、体重55 kg、身長2 mの灰白色大型の樺太犬です。(略)私達17次隊が1976年2月1日基地を引き継いでまもなく、2月12日17時、老衰で亡くなりました。(略)クサリで繋がれていた場所(飯場棟という建物の前40 m)で亡くなっていました。 14日13時よりホセを準隊員として慰霊祭を催しました。(略)2日後の15日、ホセの木箱は、ヘリ空輸で観測船ふじへ、16次隊の方達とともに帰国、生まれ故郷の北海道へ帰ったそうです」
 ホセの生年は不明だが、ブルと同年だとすると、死亡したときは14歳半ということになる。樺太犬にとって昭和基地は暮らしやすい所だったかどうかは分からないが、長い一生の70%は南極で過ごし、大往生だったと言えるのではないだろうか。

(注)*吉田栄夫:2次夏、4次冬、8次冬、16次夏、20次夏、22次冬、27次夏.
   **村山雅美:1次夏、2次夏、3次冬、5次冬、7次夏、9次冬、15次夏.

                               [2012.5.10, 書き下ろし]






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