(NPO)氷河・雪氷圏環境研究舎

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<<   作成日時 : 2016/03/24 16:00   >>

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鳥取、袋川桜土手(3月31日15時頃)



『日本標準時子午線のまち、明石』
                 投稿日:2016/03/24、No.246

 南北に細長い日本列島だが、東西にもある程度の広がりはある。例えば、太陽が真南に来る時刻は、東経145度の北海道東部の霧多布・ウトロでは(日本標準時)午前11時20分、東経125度の沖縄県西部の宮古島では午後0時40分と、東西で1時間20分の差がある。

 1886年、明治政府は次の勅令を発布した。「明治21年1月1日より東経135度の子午線の時を以て本邦一般の標準時と定む」(漢数字を算用数字に、カタカナをひらがなに改変)。

 この東経135度の子午線は、北から京丹後市(京都府)、豊岡市、西脇市、明石市、淡路市(以上兵庫県)、和歌山市(和歌山県)へ及んでいる。

 中でも明石市は、いち早く1910年、市内に子午線標識を設置した(写真の5番)。その後1928年と1951年に精密な天体測量(恒星観測)を行い、明石市内の135度子午線の位置を決定した。これは、人の目と手と精密時計を用いた測量であり、人的観測では最高精度の方法と思われる。

 1960年、この子午線の真上に明石市立天文科学館が設立された。同館の展望台の床や窓には東経135度子午線が表示され、模型にも赤い線が描かれていた(写真:3月19日)。
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 さて、ところが、国土地理院地図をインターネットで見ると、天文科学館の位置は東経135度00分05.3秒であり、135度線は同館より120 mほど西になっている。この差は何か? 測量の誤差とか、地殻変動の結果ではない。

 国土地理院地図は、地球の形を回転楕円体に近似して、それを基準面とした緯度と経度(測地経緯度)をもとに作られている。その測地経緯度も、明治時代から長く使われてきた日本測地系と、2002年から採用されているGPS時代にふさわしい世界測地系の二つがある。

 一方、明石市の子午線は、この地点で天体観測によって決められた経緯度(天文経緯度)である。したがって、日本測地系の135度子午線は天文科学館の西約370 m付近を、世界測地系の子午線は同館の西約120 m付近を通り(明石天文科学館のウェブサイトによる)、同子午線は3本存在することになる。

 明石天文科学館を見学に行った目的の一つは、このことについて展示ではどう解説されているのか知りたかったからである。しかしその説明は全くなかった。簡単に触れてしまうと、東経135度子午線の表示が嘘になってしまうし、かと言って簡潔、平易で、正しく理解される解説はかなり至難な業であろう。

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『東郷湖一周ラン』
              投稿日:2016/03/30、No.247
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 鳥取県中部の湯梨浜町にある東郷湖を一周する全長約12 kmのトレイルが、2013年、全日本ノルディック・ウォーク連盟の第1号公認コースに認定された。これを機に、東郷湖コースにて様々なウォーキング大会が開催されたり、一般の健康ウォークやジョギングに利用されている。これらのニュースを見聞きして、一度は走ってみようと思っていた。

 昨年3月末鳥取市の湖山池一周15 kmをジョギングし、次は東郷湖を暑すぎず寒すぎない好天の時に、と思っている内に、今日(3月30日)、ちょうど1年後となってしまった。

 東郷湖南端の燕趙園Pをスタートし、反時計回りに進む。途中4 km地点付近で標高差50 mの峠を越えるが、他は平坦である。全コース12 kmの80%程度は路側の歩道または遊歩道が整備されているので、自動車の走行はあまり気にならない。

 ところで本稿では断わりもなく東郷湖と書いてきたが、地理院地図(電子国土Web等)やGoogle Map、ゼンリン地図など、みな東郷池と記されている。一方、鳥取県や湯梨浜町発行の観光地図、ガイドマップなどでは東郷湖である。

 湖か池かについては、後日改めて論ずることにする。
 「池一周ラン」では見出しにならない感じがしたので、本記事ではとりあえず湖を採用した。


『東郷湖か池か』
            投稿日:2016/04/08、No.250

 鳥取県の行政文書や諸資料では湖も池もある。ウォーキングコース沿いの案内看板などでも混在している。例えば、東郷湖漁協によるイラスト地図には東郷池と示されていた。

 2007年、鳥取県議会にて議員から以下の一般質問があった。「東郷池は国土地理院による正式地名ですが、東郷湖臨海公園などと、観光分野を中心としながら東郷湖という名称が官公庁を含めて一般的に使われている。二級河川の一部として管理している県としては、東郷池の呼称を住民や学識経験者の皆さんの意見を聞きながら、そろそろ東郷湖という呼称に変更することも考えられたらいかがなものかと思う。」
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 東郷池は、長さ2 kmほどの二級河川・橋津川により日本海とつながる汽水湖である。そして、東郷池もその二級河川の水系に含まれる。

 これに対して平井知事は、概略以下の様に答弁した。「もともと、地元の人は東郷池と呼びならわすものであった。名称改正を行うこと自体は検討に値するが、まずは地元住民の意向をまとめ、湯梨浜町議会が議決をすることが出発点になる。」

 池と湖は、用語としては明確な区別はない。一般には、池は小さく、湖は大きい。『地形学事典』(二宮書店)の「湖沼」の項には、「湖・・深度は大で、湖心部に沈水植物をみない。池・・一般的には人工のものであるが、小さな水塊を慣用的によぶこともある。」と解説されている。

 確かに、貯水池、溜め池、遊水池など、人工的な池も多いが、上高地の大正池など自然の景勝地もある。一方、面積2,000 haを超える朱鞠内湖のような人造湖(ダム湖)もたくさんある。

 私の意見はと言うと、面積405 haの東郷池は(写真:2014.2.23)、池と呼ぶには非常に大きいので、やはり東郷湖の方がふさわしいと思う。湖山池はもっと大きいが(700 ha)、湖山湖では字づらにスマートさを欠くので、これだけは特例として池で良いのではないか。

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『さくら満開(鳥取)』
               投稿日:2016/04/01、No.248

 鳥取地方気象台は昨(31)日、「鳥取で“さくらの満開”を観測しました」と発表した。平年より7日早く、開花(23日)も8日早かった。

 “満開”とは、市内久松公園のソメイヨシノ標本木(1本)にて、「咲き揃った時の約80%以上が咲いたこと」を言う。

 しかし、標本木1本ではなく、久松公園や袋川桜土手のさくら全体を見ると、昨日は5分〜7分咲きの見頃と思われた。日本海新聞に掲載されている「桜だより」(JR西日本など調べ)によると、袋川土手は30日5分咲き、31日7分咲きであった(巻頭写真)。

 気象庁の職員が、開花や満開をなるべく客観的に判定するためには、標本木にて咲いた花を数えることは妥当な方法かと思うが、標本木がその地域の標準木であるとは限らない。久松公園の標本木は、毎年観察しているが、全体の平均よりは開花・満開が確かに早い。

                    投稿日:2016/04/03、No.249

 鳥取城跡・久松公園の桜は、昨日・今日(3日)、ほぼ全ての樹が満開となったようである(写真:3日09時)。
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 久松公園は、倉吉市打吹公園と並んで、(公益財団法人)日本さくらの会により「日本さくら名所100選」に選定されている(1990年)。

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『布引の滝(神戸)』  
              投稿日:2016/04/14、No.251

 新幹線新神戸駅から舗装された遊歩道を20分ほど歩くと、布引の滝4段最上部の雄滝(おんたき)に到着する(写真:4月9日)。「日本の滝100選」(1990年選定)に兵庫県の4つの滝の一つとして選ばれている。
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 雄滝の落差は43 mで、上部に第一〜第五の甌穴がある。「100選」の中では規模としては中〜小の部類だが、大都市(神戸)の繁華街から歩ける距離にある滝としては迫力、美しさの点で日本一だろう。これは、神戸市街が六甲山系の裾の際まで発展しているからである。

 布引の滝の最下段の雌滝から取りこんだ水は奥平野浄水場へ送られ、神戸市民の水道水の一部として供給されている。

 滝の上流には布引貯水池があり、麓からの遠隔操作により、滝へ放流する水量を制御している(神戸市水道局)。すなわち、四季を問わず、少なくとも観光客が訪れる昼間は、滝の水が枯れることはないらしい。

 そういうわけで、布引の滝の形は自然の力により作られたものだが、滝の水は完全な意味では「自然」とは言い難い。

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『第56次南極越冬隊報告会』
              投稿日:2016/04/20、No.252

 第56次南極越冬隊(2014-16年)および第57次夏隊(2015-16年)の帰国報告・歓迎会が、4月15日夕、赤坂の明治記念館において開催され、南極観測を推進・支援する関係者等100名位が出席した。

 昭和基地の備蓄予備燃料が完全ではなかったため、第56次越冬隊は、前年に続いて人員の規模が小さく、観測10名(内、気象庁5名)、設営15名(内、機械担当5名)、および隊長の計26名(内、女性、庶務・情報発信担当1名)だった。
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 したがって、観測は気象を中心とした、定常およびモニタリング観測が主であった。

 特筆すべきことは、2015年10月に観測された南極上空のオゾンホールが過去最大面積であったこと、および昭和基地の積雪深が機器観測開始(1999年)以来、最高の185 cmを記録したことである。

 オゾンホールは原因となるフロンの放出が世界的に規制されているので、状況が改善はしなくても悪化はない、と思っていたが、観測史上最大とは衝撃的である。

 昭和基地の積雪深は、過去10年増加傾向にある。もちろん、その原因は分からない。


 『第57次南極夏隊報告』
              投稿日:2016/04/26、No.253

 第56次越冬隊の経過報告(三浦英樹隊長)に続いて、第57次夏隊の夏期オペレーションの概要が報告された(門倉昭隊長)。

 同夏隊は、「しらせ」乗船の夏隊員22名(内、女性2名)、海鷹丸乗船の観測隊員5名、地学調査別働隊員5名、および両船乗船同行者(大学院生、学校教員、航空技術者、報道等)18名、総計50名におよぶ大部隊であった。

 「しらせ」は3年連続して昭和基地沖へ接岸することができ、燃料や機械、物資等、全1037トンの輸送を実施した。これで、昭和基地の備蓄燃料は計画通りの量に達した。
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 昨年のリュツォ・ホルム湾の海氷状況を写真に示す(隊長「報告」のスライドから)。左が2015年4月、右が同年10月のSAR画像である。左図、右図の赤い線は、56次しらせ砕氷航行時(2014年12月〜15年2月)の多年性氷境界を示す。

 すなわち、56次夏隊の航海時には、赤い線の右下(東南)側は結氷後2年以上経過した厚い氷で被われていた。しかし、昨年4月には、多年性氷(白っぽい部分)が南東方向へ後退し、さらに同年10月には弁天島が多年氷から開放され、海水面または流氷域(黒っぽい部分)に変った。

 このように、強固な厚い海氷であっても、風や海流、潮流で流されたり、氷が割れて流れ去ったりして、2、3か月の間に状況が激変することがある。3年続けて(2014〜16年)ラミング(船が勢いをつけて氷板に衝突すること)を繰り返しつつ昭和基地沖に達することができたが、その前の2年間(2012〜13年)は接岸断念、その前の17年間は接岸が可能だった(1994年、接岸不能)。

 このような海氷状況に周期性があるのかないのか不明だし、複数の要因が影響していると思われるので、来年はどうなるか全く予想ができない。

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『三平山軽登山』
          投稿日:2016/05/02、No.254

 岡山県真庭市と鳥取県江府町との県境にある独立峰、三平山(みひらやま:1100 m)へ今日(5月2日)登ってきた。今年初めての山歩きである。

 登山口は標高710 m、三平山森林公園入口付近にある。緩やかな登山道を高度300 m上って、50分で山頂に着く。鳥取県の1000 m級の山としては最もたやすい、幼年〜高齢者向けの登山コースの一つである。

 三平山は、1900年頃、蒜山高原一帯の原野とともに陸軍の軍馬育成場として収用され、広範囲に樹木が伐採され、放牧場となった。その森林が現在も完全には復元しておらず、山頂付近はススキや低木のみとなっている(写真)。その不幸が幸いとなり、頂上からの眺望は360度申し分ない。
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 写真は、三平山頂上付近から北方向を見る(2日、13時)。遠景の山は左から、大山山系の弥山(みせん、1709 m)と剣ケ峰(1729 m)、その右の鋭鋒が烏ヶ山(からすがせん、1448 m)、右端は休暇村鏡ヶ成を囲む象山(1085 m)と擬宝珠山(ぎぼしやま、1110 m)である。

 例年5月のGWには、大山南壁の沢筋に多くの雪渓が見られ、新緑、ガレ、雪のコントラストが見応えがあるのだが、今年は残念ながら雪がほとんど残っていなかった。

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『新余部橋梁』
         投稿日:2016/05/07、No.255

 兵庫県香美町、旧国鉄山陰本線の鎧駅と餘部(あまるべ)駅との間に、1912年から約100年間、日本一の規模を誇る全長309 m、橋脚高41.5 mのトレッスル式鉄橋があった。これは余部(あまるべ)鉄橋と呼ばれ、国鉄−JR西日本時代を通して鉄道ファンのみならず多くの旅行者にとって名所のひとつとなっていた。

 特に、バスや車で来た観光客が一区間のみ列車に乗って橋を渡ったり、列車通過時に斜め下から見上げる撮影スポットには、多くの愛好家が集まっているのを何回か見かけたことがある。写真<上>は、「道の駅あまるべ」にて展示されている余部鉄橋の模型である。
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 ところが、1986年12月28日午後、福知山発-浜坂行回送列車が余部鉄橋を走行中、最大風速約33 m/sの突風にあおられ、客車7両が約41 m下の水産加工場と民家に転落し、加工場の女性従業員5名と車掌1名が犠牲となった。この事故を機に、列車の運行規制が風速25 m/s から20 m/sに引き下げられたが、これにより特に冬季の季節風時には列車の遅延や運休の事例が大幅に増加することとなった(香住観光協会資料参照)。

 このため、新橋梁の架け替えが検討され、2010年、鉄筋コンクリート製の橋が完成した。橋の位置、長さ、高さは旧橋とほぼ同じである。なお、新橋には、透明なアクリル製の防風壁を設置し、風速30 m/sでの列車運行が可能となった。

 また、橋の直下の「道の駅」から40 mほど上の餘部駅へ歩いて登ると、旧橋の一部が展望台「空の駅」として開放されている。

 新余部橋梁は、「直線で構成されたシンプルな美しさ」と「風景に溶け込む透明感」をデザインコンセプトとした(香住観光協会)そうだが、下から見上げるコンクリート橋(写真<下>、2016.4.24)は、どこにでも見られる高速道路の橋と変わりがない感じがして、残念ながら旧鉄橋の趣には遠くおよばない。

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『砂の美術館(南米編)』
            投稿日:2016/05/13、No.256

 砂の美術館(鳥取)の今年のテーマは、「砂で世界旅行・南米編」〜繁栄の記憶を留める奇蹟の新大陸を訪ねて〜である。
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 写真(5月11日)の左は「空中都市マチュピチュ」、奥の上は「伝説の黄金郷エルドラド」、その手前は「チチカカ湖と民族」、右端は「インカ道とアンデスの自然」である。18像すべて作者は外国人である。

 この砂の美術館は、2006年に設立し第1期は完全な野外、その後、第2期(2008年)から4期(2010年)までは仮設テント内、そして第5期(2012年)から室内の美術館が完成し、今年は第9期となる。

 砂の美術館の計画段階では、鳥取にはもうハコモノはいらないと思っていたが、建物は単純なつくりなので建設費はかなり安く、一方、期間(260日前後)入場者総数は第1期11万人、5期53万人、8期48万人と堅調で、他の都市にはない特色ある美術館として成功したといえる。

 展示されている砂像(写真)は砂と水のみで作成される。大きな木箱に粒子の細かい鳥取砂丘の砂と適量の水を入れ、繰り返したたいて圧縮し、固まった砂の大きな塊を、スコップやナイフ等を使って削りとり、砂の彫刻が制作される。接着剤や固化剤のようなものは一切使っていない。

 砂の美術というと範囲が広くなるので、砂の美術館ではなく砂像美術館と称するべきである。しかし、「さぞう」は音で聞くと分かり難そうなので、「砂の」としたのだろう。

 砂像は崩れたら補修し、展示の期間が終わったら壊されて砂に戻る。期限付きの美術品である。

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『日本遺産“三徳山・三朝温泉”』
          投稿日:2016/05/19、No.257    

 日本遺産の初年度(2015年)認定18件の一つとして、過日(3月3日)本欄にて、「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」を紹介した。その第1回の認定に、鳥取県三朝町の三徳山(みとくさん)と三朝温泉が「六根清浄と六感治癒の地〜日本一危ない国宝鑑賞と世界屈指のラドン泉〜」というタイトルで選ばれた。

 文化財の保護や保全を重視する世界遺産(文化遺産)とは異なり、日本遺産は、地域に点在する有形・無形の多くの文化財をパッケージとし、ストーリーを組み立てて、地域活性化を図ることを目的としている。

 上記のタイトルを見ただけでは、知らない人にとっては「遺産」の内容を想像し難い。そこで、申請書に記載の「ストーリーの概要」全文を以下に転載する(三朝町教育委員会)。

『三徳山は、山岳修験の場としての急峻な地形と神仏習合の特異の意匠・構造を持つ建築とが織りなす独特の景観を有しており、その人を寄せ付けない厳そかさは1000年にわたって畏怖の念を持って守られ続けている。
 参拝の前に心身を清める場所として三徳山参詣の『拠点を担った三朝温泉』は、三徳山参詣の折に白狼により示されたとの伝説が残り、温泉発見から900年を経て、なお、三徳山信仰と深くつながっている。
 今日、三徳山参詣は、断崖絶壁での参拝により「六根(目、耳、鼻、舌、身、意)」を清め、湯治により「六感(観、聴、香、味、触、心)」を癒すという、ユニークな世界を具現化している。』

 その三朝温泉にて、5月17-18日、47年前の第10次南極観測隊(1968-70年)のOB会が開催された。元越冬隊員19名、同夫人12名、元夏隊員2名、隊友3名、計36名が参集した。高齢者の集会だが、出席率は非常に高く、盛会のうちに経過した。
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[写真:三朝温泉。右下は三朝川の河原風呂]

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『若杉天然林ハイキング』
           投稿日:2016/05/25、No.258

 岡山県北東端の英田郡西粟倉村に「若杉天然林」という名の自然観察や森林浴の森(面積83 ha、標高910〜1190 m)がある。森林内には、自然研究路(遊歩道)が良く整備されているとともに、ところどころ樹の名前や簡単な解説板が設置されている。5月24日、3 kmのコースをハイキングした(写真:ブナ林を行く)。
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 この森には、ブナ、カエデ、ミズナラ、トチノキなどの巨木をはじめ199種の樹木が確認されているそうである。天然スギもあるが、「若杉」は単にその付近の地名である。

 ここは、「若杉原生林」とも呼ばれている。しかし、江戸時代にスギや、薪炭用にナラ類が伐採されたことがあり、人の手が加わっていない原始林というわけではないが、豊富な植物相から「天然林」と言える(解説板より)。

 人口1506人(2016.5.6現在)の西粟倉村は、中国地方5県の中で3番目に人口が少ない村であり、面積の約95%が山林、その内の約85%を杉や檜などの人工林が占めている。

 同村では、役場が森林所有者から森林を預かり、森林の間伐、作業道整備を行う取り組みを行っている。これは、『百年の森構想』として、10年間を一区切りとして長期に管理していくものである。美しい森林を守り、限りある自然の恵みを分かち合える上質な田舎づくりを目指している(西粟倉村役場)。

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『鳥取県の石』
         投稿日:2016/05/31、No.259

 鳥取県の木はダイセンキャラボク、県の花は二十世紀梨の花、県の鳥はおしどり、県の魚はヒラメである(1954〜1990年に各種委員会等により選定)。この4つをすらすら言えた人は、鳥取県民の中でも相当な物知りか関係者に限るのではなかろうか。

 これに加えて、この度(2016年5月10日)、「鳥取県の石」が新たに選定された。その「石」は、砂丘堆積物(主要産地:鳥取砂丘)である。砂丘を構成している物質は石英と長石を主とした砂であり、ふつうの岩石ではないが、石の粒である。

 この「県の石」は、日本地質学会が全国47都道府県について、その県に特徴的に産出する、あるいは発見された岩石・鉱物・化石を選定したものである。その目的は、一般市民は、奇岩や特別な景観を除いて石や岩を意識することが少ないので、「県の石」を選定することにより、大地の性質や成り立ちに関心を持ってもらう、ということである(地質学会井龍会長のコメントより)。

 選ばれた側の鳥取県では、県ウェブサイトの「県章、シンボル」のページにはまだ掲載されていない。県としてこれから認知して、積極的に活用するのかどうか。砂丘が選定されたのだから、不賛成とか不満足ということはないだろうが、今さら砂丘を看板にしても新鮮味やインパクトがほとんどない気もする。
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 写真はGWのさなか(2011年5月3日13時頃)、大変な賑わいの鳥取砂丘。

 なお、47都道府県ですべて違う石を選定するのは、結構苦労が多かったのだろうと想像する。広島県は広島花崗岩、山口県は(秋吉台の)石灰岩、福岡県は(筑豊の)石炭という良く知られた岩石であり、一方東京都は(小笠原諸島の)無人岩(むにんがん)という極めて特殊な岩石が選ばれている。果たしてこれらが、その地域(県)に定着して、親しまれるようになるかどうか。

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『クレバス探知レーダ』
          投稿日:2016/06/06、No.260

 東京にて25年ぶりに中学校の同窓会に出席した後、5月31日、時間をつくって立川の国立極地研究所へ行き、ノルウェー極地研究所から招聘研究者として来日したばかりの松岡健一主席研究員(Principal Research Scientist)と久しぶりにディスカッションをした。

 研究発表会だと一つの話題の時間が限られるし、一般向けの公開講演だと普通は入門や背景の話に多くの時間が割かれるので、今回は一対一の特別セミナーを設定してもらい、フルに2時間、内容の濃い会合だった。

 松岡等ノルウェーやイギリス(BAS)他の共同研究グループは、現在、南極氷床周縁部で海に浮いている棚氷(たなごおり、ice shelf)の中で部分的に海底の凸部に座礁して表面が盛り上がっているアイスライズ(ice rise)に重点的に取り組んでいる。

 そのアイスライズの存在と変動が、源流域の氷床の挙動に重要な影響を与え、ひいては将来の海面変動に大きく関わると考えているからである。

 そのため同グループでは、雪上車やスノーモービルによる雪上調査、航空機や人工衛星によるリモートセンシング、および数値モデル実験を行っている。

 氷床と棚氷との境界地域(接地線、grounding line)やアイスライズ周辺では、氷に複雑な力(応力)がかかるので、一般にはクレバス(氷の割れ目)が多くできると思われる。「こういう地域をスノーモービルで走り回るのは非常に危険ではないか」との疑問に、「クレバスの可能性がある地域では、先導車がレーダによりクレバスを探査し、安全なルートを選定している」とのことであった。
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 そのクレバス探知レーダ(crevasse detection radar)を写真に示す(撮影:Peter Leopold, Norwegian Polar Institute、2013年1月)。場所はFimbul棚氷(経度0度付近)上で、遠景は氷床と遠くの山々である。

 クレバスレーダは基本的には400 MHZのGPR(地中探査レーダ)と同じである。アンテナは、雪上車の前に7 m突き出た黒の円い部分に収められている。

「運転手の横のレーダオペレータが常時Zスコープという断面図を見ている。電波は、真下ではなく前後左右に広がって放射されるので、真下にないが遠くから近づいてくるクレバスからの反射は、レーダの断面図には双曲線的な形のエコーとして現れる。そういう、前進にともない徐々に浅いところに現れてくるエコーをできだけ早く見つけるのがオペレータの仕事である。

 実際危険地帯に入ると時速7 km(秒速2 m)から10 kmぐらいで移動、オペレータの指示で減速、本当に危機的になると、極端に遅くなる。大きなクレバスを見つけると、安全管理者がスノーブリッジ(クレバスに架かる雪の橋)を壊して、判断している」(松岡メールの抜粋)。

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『東京の名水:真姿の池湧水群』
            投稿日:2016/06/10、No.261
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 国分寺の市街地の中に「お鷹の道・真姿(ますがた)の池湧水群」(写真)という名所があり、地元住民や地域外の人々に散策などで親しまれている。

 この湧水群は、環境庁の名水百選(1985年)に選定された東京都の2つの名水の一つである。年間を通じてほぼ変わらぬ豊富な水量があり、現在も住民の生活用水として利用されている。 

 東京都の西部を広く被う武蔵野台地には、南側の低い河岸段丘(立川段丘)と、北側の一段高い段丘(武蔵野段丘)が発達している。両者の境界は、高さ10〜20 mの崖となっている(崖線、がいせん)。その内、国分寺崖線は、立川市から国分寺市、小金井市、三鷹市、狛江市、世田谷区を通って大田区まで、計約25 km延びている。

 その崖の麓では各所で地下水が湧き出ている。写真(5月31日)奥の階段は、崖を15 m上がって国分寺公園に至る歩道である。

 なお、この付近は江戸時代に尾張徳川家の御鷹場だったため、崖下の清流沿いの小径を“お鷹の道”と名づけ、遊歩道として整備されている。

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『智頭往来、篠ヶホキ』
          投稿日:2016/06/14、No.262

 江戸時代、鳥取藩の参勤交代の街道は智頭往来(または因幡往来、上方往来)と呼ばれ、第1日目の宿場は鳥取城から約32 km南の智頭である。

 その智頭宿へ入る直前に「篠ヶホキ」(ささがほき:篠が峰岐)という古い山道がある。11日、ここを歩いてみた(写真)。
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 この古道は、国道53号線やJR因美線が現在はトンネルで通過する御立山の中腹を、千代川から標高差約80 m程度を高巻いている。『歴史の道百選』(文化庁、1996年)に選定されている「智頭往来:智頭〜西粟倉21 km」の一部なので、それなりに整備はされている(写真)。

 しかし、土砂崩れ、落石、倒木など山道の崩壊があちこちに見られる。篠ヶホキ約1 kmの片道はゆっくり歩いて35分だった。軽登山やハイキングとしては物足りないし、かと言って観光客の散歩としては道が荒れており楽ではない。

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『北前船の係留跡』
           投稿日:2016/06/19、No.263

 山陰海岸ジオパークのガイドマップ「浜坂・諸寄(もろよせ)コース」に、「北前船の係留跡」と記された小さな写真が張りつけられていた。これは一体何なのか、とりあえず行ってみることにした。

 諸寄港から1 kmほど北西、日和山の半島先端の岩場を歩いて探していたら丸い穴を見つけた。写真の様に、直径15 cmくらいのきれいな円である。穴の底に砂や水が溜まっていたので深さは分からないが20-30 cm程度だろうか。同様の穴が、数mほど離れて4個あった。
画像

 これが北前船の係留跡に違いない。当時は、たがねをハンマーで叩いて溶岩に円筒状の穴を空け、そこに丸太を立て、それに船のもやいのロープを結んだのだろう。 

 北前船(きたまえぶね)は江戸中期から明治30年代まで、蝦夷(北海道)と大坂の間を、日本海沿岸の諸港に寄港しながら、下関、瀬戸内海を通って往来した廻船である。北前船はいわば“海を往く総合商社”であった。本州からは、米や塩、砂糖、酒、酢、鉄、綿、薬、反物や衣類などあらゆる生活物資を、逆に、蝦夷地から上方へは、主に昆布や鰊、鰊粕、干鰯、鮭、鱈などの海産物を運んだ。(「Blue Signal」 JR西日本)

 種々の文献等では、北前船の主な寄港地として、鳥取県では橋津、赤碕、境港が、兵庫県の日本海側では竹野、柴山、香住、浜坂が挙げられている。諸寄は見当たらない。浜坂から5 km離れた諸寄は、主要港である香住や浜坂の副か補助か代替港だったのだろう。

{お知らせ:6月19日(日)〜28日(火)、NPO法人氷河・雪氷圏環境研究舎(鳥取)は不在になります(成瀬外国旅行のため)。}





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