大山登山;極シンポ;玄武洞;石見銀山;魚附林;マチュピ棚田

  大山(だいせん)登山         成瀬廉二、2010/10/25、No.2097
 涼しくなったらと計画していたので、紅葉には早かったが、10月初旬(5日)、大山へ登った。大山(剣ヶ峰:1,729 m)は中国地方5県の中で最高峰、最後の噴火は約1万年前の比較的古い火山である。

 全国に「大山」という地名・山名は58あるが、「だいせん」と読むのは京都府亀岡市大山台(だいせんだい)と伯耆大山のみである(西伯郡大山町役場HPによる)。

 大山町大山寺の登山口(780 m)から8合目付近(1,580 m)までの標高差800 mは、よく整備された丸太組みの階段を直登気味にひたすら上るというルートである。8合目から上は開けた尾根状斜面で、弥山頂上(1,709 m)まで木道が敷かれている(写真)。弥山から最高点の剣ヶ峰までの稜線は岩石の崩壊が激しく、立ち入り禁止となっている。したがって、弥山頂上が大山の夏山頂上となっている。登山口から山頂までの一般登山者の標準タイムは2時間30分程度である。

 標高900 m付近から5合目(1,245 m)辺りまでは、西日本一と言われるブナ原生林の中を行く。8合目から上部は、国の特別天然記念物ダイセンキャラボク(イチイ科の針葉の低木)の群生地となっている。当日、下界では朝から雨が上がり晴れとなったが、7合目から上部は雲が帽子のように被い、山頂付近では濃霧(俗に、ガス)、視程約50 mであった。

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  [写真] 2010.10.5, 13:30。8合目のやや上より弥山頂上方向を望む。木道の右側(東-北東)はダイセンキャラボクの低木林、稜線の左側(西-南西)は急峻な崖である。

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極域科学シンポジウム 

            2010/12/05、No.2106

 第1回極域科学シンポジウムが12月1-2日、東京都立川市の国立極地研究所にて開催された。昨年までの30-34年間は、南極観測隊および北極調査の研究成果が、宙空圏、気水圏、生物、地学の4つの分野の独立なシンポジウムにて発表、議論されてきた。氷河や雪・氷は、大気中で生成した雪が起源で、融ければ水になるので、気水圏に含まれる。
 ところが、特に地球環境問題などでは、分野の境界領域あるいは複数の分野にまたがる研究が重要ということで、今年は4つのシンポジウムを同時期に開催し、それとは別に4分野合同の極域科学シンポジウムが開かれた。
 確かに、いくつかの発表は複数の分野にかかわる研究であった。印象に残った発表の例では、"成層圏における温室効果ガスの変動”は宙空圏と気水圏の境界領域の現象であり、"海洋の生物(植物プランクトン)活動による海水中のCO2や酸素の変動”は気水圏と生物圏に関わる問題である。これからも、このような分野横断の議論が重要である、との感を強くした。
 なお、本年7月、極地研究所内に南極・北極科学館がオープンし、一般に開放されている。写真は、南極ドームふじ基地の深層掘削に使用されたドリル(全長13m)である。手前が上、奥が下で、ドリル先端に切削刃がついている。左が外筒、その中に右の部品が入る。手前のパンタグラフのような物は、ドリルが空回りしないように、孔内の氷の壁に突っ張る板バネである。

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玄武洞 

                                2010/12/20、No.2111

 巨大なエンピツを束ねたような柱状節理が、縦に、斜めに見事に並ぶ玄武洞(兵庫県豊岡市)は、海岸から数km内陸にあるが、山陰海岸ジオパークの主要な目玉の一つである。玄武洞の節理は、約160万年前の火山活動による溶岩が冷えて固まるときに形成された規則正しい割れ目である。

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 写真は玄武洞の一部の青龍洞である(2010.12.18)。玄武洞の洞窟は自然に作られたものではなく、江戸時代から盛んに採石が行われた結果である。1931年に国の天然記念物に指定された。
 また、玄武洞は、地球の磁場の方向が反転していたことの発見としても有名である。松山其範博士(京大)が玄武洞を含む日本各地や東アジアにて岩石の残留磁気を測定した結果、1926年、世界で初めて磁場反転説(現在は、地球磁場のS極が北極付近にあるが、これが反転し、N極が北極付近にある状態)を提唱した。その後多くの歳月を経てこの反転説が認められ、1964年、最後の逆磁極の時代(約70~250万年前)を「松山逆磁極期」と国際的に称されることになった。
 なお「玄武洞」は、江戸時代後期、古代中国の守護神「玄武」に由来して命名された。また、1884年、玄武洞と同質の岩石が玄武岩と名づけられた(豊岡市の案内板より)。

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世界遺産:石見銀山(上) 

                成瀬廉二、2011/02/22、No.2132

 島根県大田(おおだ)市の石見(いわみ)銀山は、2007年7月、UNESCO(国際連合教育科学文化機関:本部パリ)により世界遺産の文化遺産に登録された。世界遺産には、顕著な普遍的価値を有する”記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など”の「文化遺産」、および”地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域”の「自然遺産」、ならびに両者の価値を兼ね備えている「複合遺産」がある。

 日本の世界遺産は、所在地または施設名を挙げると、「自然遺産」が屋久島、白神山地、知床(2005年登録)の3地域、「文化遺産」が法隆寺、姫路城、古都京都、白川卿、原爆ドーム、厳島神社、古都奈良、日光社寺、琉球王国、紀伊霊場、および「石見銀山遺跡とその文化的景観」の11箇所、の計14件である。その内、石見銀山が最も新しい認定である。

 世界遺産に登録されてから、環境保護のため、銀山遺産地域は観光用自動車の乗り入れが禁止となった。銀山のかつての採掘坑道(間歩<まぶ>と言う)を見学するためには、公共の駐車場に車を止め、そこから片道2.3 km、往復約1時間半を歩くか、レンタルサイクルか、三輪車タクシー(欧州ではベロタクシー、終戦後の日本では輪タクと呼んだ)の3つの方法しかない。

 去る2月12日、例年にない積雪と雪降りの中、徒歩にて龍源寺間歩を見学した。その間歩の入口(写真)は、驚くほど、質素で簡素なものであった。
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世界遺産:石見銀山(中) 

               成瀬廉二、2011/02/25、No.213

 石見銀山は、1526年に九州博多の豪商によって発見されて以来、1923年の休山まで約400年にわたって採掘されてきた日本を代表する鉱山遺跡である。石見で生産された銀は高品質で、東アジア交易において最も信用が高く、16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたものだったと考えられている。(大田市ウェブサイトより)

 「石見銀山ガイドの会」の資料によると、同銀山には大小約600箇の間歩(まぶ)が存在するが、現在、一般公開されているのはこの龍源寺間歩だけである。これは、江戸時代初期に開発された大坑道で、同中期には代官所直営として操業された。

 龍源寺間歩は全長約600mにおよぶが、見学できるのは入り口から157mの地点までである。坑道の高さは1.6~2.1mで、標準的な身長の人でも所により頭がぶつかる。幅0.9~1.5mの壁面には、採掘当時のノミの跡がそのまま残っている(写真)。鍾乳洞の様に、つららとか石筍とかの奇怪な造形物はないが、坑道から枝分かれする横穴や竪坑が見られ、鉱脈に沿って掘り進んだことがうかがえる。

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世界遺産:石見銀山(下) 

                成瀬 廉二、2011/03/02、No.21

 石見銀山が世界遺産に登録申請中の2007年3月頃、短時間ながら駆け足で銀山遺跡を見学したことがある。その時は、「世界遺産にはとても認められないだろな」と思った。その理由は、世界には金銀の鉱山は数多くあることと、石見銀山の坑道やその周辺の景観は大変地味で世界に伍す優れた価値があるとは思えなかった、からである。

 同年5月、ユネスコの専門会議は、石見銀山遺跡は「普遍的な価値の証明が不十分」などとして登録延期の勧告を行った。その直後から、日本政府や関係者等の巻き返しの活動が進み、膨大な説明資料を提出し、6月下旬に逆転登録が決定した。石見銀山遺跡の周辺では、かつて製錬のため膨大な木材燃料を必要としたが、同時に適切な管理の下に植林が行われ、現在も豊かな森林資源が残されている、という「自然との共生」が有効なアピール点となったそうである。

 『石見銀山遺跡とその文化的景観』は、大田市大森町を中心とし、旧温泉津(ゆのつ)町、旧仁摩町を含めた広範囲に及ぶ遺跡である。遺跡の範囲は、「銀鉱山跡と鉱山町」、「街道(石見銀山街道)」、「港と港町」の3つから構成され、それらに含まれる計14個の施設または地区がある。その1つが、写真に示す大森銀山重要伝統的建造物群保存地区である(本年2月12日)。江戸時代の武家や商家の旧宅や、社寺などが混在し、古い街並みがよく残っている。
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 石見銀山が世界遺産に登録されたことは、観光客や文化財関係者等が多く訪れるようになり、それに付随する人・物の動きも増し、経済的効果は著しく高かったことに違いない。しかし、石見銀山遺跡は現在人々が暮らしている地域や交通路に広がっているため、今後、遺産の保護・保全と人々の生活・産業活動をどう調和させて行くのか、関心を持って見守りたい。

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魚附林の地球環境学 

                      成瀬廉二、2011/04/04、No.2146

『魚附林の地球環境学』という本が刊行された。まだ読んでいないため書評は書けないので、著者(白岩孝行)の挨拶状から一部を以下に抜粋する。なお、魚附林(うおつきりん)とは、一般には聞きなれない言葉だが、沿岸生態系に影響を与えるような森や林、を指すそうである。

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 「(この本は)オホーツク海や親潮の高い海洋生産性が、遠く離れたアムール川が輸送する溶存鉄に依っているという仮説を検証するプロジェクトの物語です。・・・・・・近年、森と川(里)と海を一体として考える思想や研究が日本各地で盛んになりつつありますが、本書もその流れの一端を支えることを期待して執筆いたしました。」

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 ついでで申しわけないが、この半年以内にわれらが仲間がいろいろな書物を出版したので、寄贈されたものから一部を紹介しておこう。

『氷河地形学』、岩田修二・著、東京大学出版会、2011年3月、pp.387、¥8,200+税

『テーチス海に漂う青い雲』、テーチス紀行集編集委員会・編、いりす、2011年1月、pp.570、¥4,762+税

『南極で宇宙をみつけた!』、中山由美・著、草思社、2010年11月、pp.238、¥1,500+税

『ビジュアル大百科 氷河』、ハンブリー+アレアン・著、安仁屋政武・訳、原書房、2010年7月、pp.304、¥15,000+税

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Re: 魚附林の地球環境学 

                     白岩孝行、2011/04/05、No.2149

成瀬先生

 ご無沙汰しております。

 この度は、拙著をご紹介いただき、ありがとうございました。まさか山男が海の本を書くことになるとは、10年前には想像しておりませんでした。氷河研究からは少々遠ざかってしまいましたが、アムール川研究に携わった8年間は充実しておりました。

 本書はそろそろ書店に並び始める頃と思います。また、Amazonでも4月中旬頃から取り扱いが始まるそうです。是非、手にとって、ご覧いただければ幸いに存じます。

 以下、気仙沼の畠山重篤先生からいただきました推薦文を記します。畠山先生は、今回の大震災でご自身の養殖業とお母上を失われ、大変な苦境にあります。四半世紀にわたって「森は海の恋人」運動を続け、海に対する森の重要性を全国に広めてくださったこのパイオニアとその故郷・三陸海岸に、皆様の応援をよろしくお願いします。

「本書は興奮の書である。森と海の関わりが解明されるたびに筆者の興奮は高まっていった。読者も読みすすむにつれ興奮の坩堝に吸い込まれてしまう。学者の執筆とは思えない平明な文体には、中谷宇吉郎博士から連なる伝統が息づいている。」

 牡蠣の森を慕う会 代表 畠山重篤氏 推薦

 地球研叢書
 「魚附林の地球環境学 -親潮・オホーツク海を育むアムール川」
 白岩孝行 著
 昭和堂
 ISBN978-4-8122-1118-2
 2300円+税

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ハンノキ花粉症  

                     市谷年弘、2011/04/06、No.2150

みなさんは、スギ・ヒノキ・ブタクサ・イネ科などの花粉症はよく聞いたことがあると思いますが、カバノキ科ハンノキ属のなかでも、ヤシャブシ亜属にアレルゲンがあることを知っているだろうか?兵庫県六甲山周辺は、このヤシャブシがのり面保護のために定植されており、この3月下旬から4月に花を咲かせ、その花粉生産量がスギ匹敵するくらい多いが、植林面積がまだそれほど多くないために、スギ・ヒノキ花粉症ほどは注目されていない。今後は問題となる植物なので取り上げさせて貰いました。

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 写真は、鳥取市古海にて撮影されたヤシャブシ(2011.4.1)

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マチュピチュという棚田 

            成瀬廉二、2011/07/29、No.2189

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 鳥取市河原町神馬(かんば)に「鳥取のマチュピチュ」とアピールしている棚田がある。いなば西郷むらづくり協議会が6月19日、まちおこしのために行ったイベントの一つに、「あるがままの大自然散策-鳥取のマチュピチュ 神馬の天空の棚田を歩く」があった。

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 神馬集落から自動車用の山道を高度差約100メートル、30分ほどかけて登ると、標高400-470メートルの斜面に棚田が広がっていた(写真下:2011.6.19)。農家の後継者不足のため、棚田の面積は減りつつあり、現在は約3ヘクタールにて稲作が行われている。この場所は、標高758メートルの無名山の東斜面の中腹に位置し、上流の森林で涵養された豊富な湧水は日照りが続いても枯れることがなく、水田には非常に適した環境、とのことである(農家夫人談)。

 一方、本家の世界遺産マチュピチュは、ペルーのアンデス山中、岩峰の鞍部(標高2,400メートル付近)にあるインカの遺跡である(写真上:2007.1.30)。ここは熱帯山岳雨林の上部に位置するため、麓からは遺跡の存在が長らく知られることがなく、そのため"天空の"とか"空中都市"と呼ばれている。 写真中央の石垣は、かつての住居、生活空間、礼拝所等の石造建築物の遺跡である。15世紀半ばに建設され、100年以内の短期間、人々がここに暮らしていたと考えられているが、インカは文字を残さないので、なぜこんなアクセス不便な場所に、どういう人たちが、何のために、どんな暮らしをしていたのか、ほとんど明らかになっていない。そのため、いっそう"謎の"、"神秘的な"、"奇跡の"などと形容されている。

 写真右の手前に、石組みで縁取られた緑色の階段状地形が見られる。これがかつての段々畑であり、遺跡の周辺の急斜面にも広く、数多くの畑が開墾されていた。マチュピチュの時代、この段々畑にてジャガイモまたはトウモロコシが栽培されていたと考えられている。

 さて神馬の棚田がマチュピチュの段々畑に似ているか否かはここでは論評しないことにする。日本の棚田百選には、鳥取県の岩美町横尾と若桜町つく米の2箇所の棚田が選ばれているが、これらは付近に自動車道路が走り、車中から棚田を眺めたり、見下ろしたりできる。これに比べると、神馬の棚田は、集落より標高の高い閑静な山奥にあるので、「天空の棚田」と呼ぶには無理があるとも言えない。

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マチュピチュ都市の人口         

         成瀬廉二、2011/08/05、No.2190

 マチュピチュに「謎の都市」が栄えていた15世紀半ばから16世紀前葉は、コロンブスの新大陸発見(1492年)、マゼランの南アメリカ大陸南端周回(1520年)の頃で、ヨーロッパではそんなに大昔ではない。それでも、この「都市」の目的には様々な説がある。

 例えば、「宗教活動に従事する女性たちが暮らした」、「(インカ)国家の中心地クスコを守る要塞」、「インカの最高神"太陽"を観測する宗教儀礼を行う場所」、「インカ拡大の礎を築いた第9代王パチャクティが自身の私有地として建設した都市」という説がある(いずれも、「空中都市 マチュピチュ」、NHK世界遺産100、より)。また最近は、「消失したインカ都市」マチュピチュは真の意味の"都市"ではなく、太陽神の重要な巡礼地であった、という説が発表された(Giulio Magli, Science msnbc.com)。

 ところで、マチュピチュに関して調べている内に、
「遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている」(ウィキペディア)
の記述があり、その中の"約750名"という数字に惹かれた。どういう根拠で推定したのか、都市というより部落程度の集団だったのか、と。

 インターネットやその他の解説記事では、"約750名"の出典を見つけることが出かなかったが、一つだけ「マチュピチュには約200戸の石造建造物があり、居住者はおそらく750人を超えることはなかった」(Rossella Lorenzi, Science msnbc.com)があった。200 x (3-4)人 = 750人なのか、750人の根拠は別にあるのか、ここでは良く分からない。

 ところでウィキペディアに、「この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった」との解説があった。インカ帝国(15-16世紀)の首都クスコ(Cusco)の標高は約3,400 m、マチュピチュは2,400 mで約1,000 m低い。クスコの最寒月(6-8月)の最低気温の平均が+1度Cなので、マチュピチュは+7度C程度である。したがって、マチュピチュに"別荘"の意味合いがあったとしたら、それは"避暑地"ではなく"避寒地"であったに違いない。

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[写真:マチュピチュの石造建築の遺跡(2007.1.30)]

   

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