(1) 『パタゴニア氷河研究の萌芽-1960年代の学術探検-』 (前編)

  [2011年1月、日本雪氷学会誌「雪氷」に発表] =前編=
要 旨
1.はじめに
2.パタゴニア北氷原の氷河調査(北大)
3.南氷原を横断してウプサラ氷河へ(六甲学院)


=後編=
4.パタゴニア南氷原・HPS10氷河調査
 (京大探検部アンデス学術調査隊)
5.南パタゴニアの氷河探策と登山
 (東京工業大学 パタゴニア遠征隊)
6.あとがき
 文 献


[著者]
 成瀬廉二(NPO法人 氷河・雪氷圏環境研究舎)
 岩田修二(立教大学 観光学部)
 安成哲三(名古屋大学 地球水循環研究センター)
 藤井理行(国立極地研究所)

                   
 要  旨
 1960年代後半、わが国の3つの大学と高校OBの遠征隊が、パタゴニア北氷原のソレール氷河ほか、および南氷原のHPS10氷河、ウプサラ氷河と周辺地域、ならびにフエゴ島にて学術探検を行った。本報告は、現在一般には入手困難な遠征隊報告書および諸資料から抜粋、復刻し、探検の行動記録と調査結果、および筆者等の当時の"想い"をまとめたものである。これらの学術探検は、氷河調査としては予察的、初歩的に過ぎなかったが、得られた経験と知見は約15年後にパタゴニア氷河研究の開始への駆動力となった。

キーワード:パタゴニア、北氷原、南氷原、氷河、フィヨルド
Key words: Patagonia, northern ice field, southern ice field, glacier,
fjord.

         ”図、写真をクリックすると大きくなります”  
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   図1.サン・ヴァレンティン山東尾根と北東斜面の氷河(1967年2月).
       
1.はじめに 

 南アメリカ大陸南部、およそ南緯47度以南のパタゴニア地域の氷河について、20世紀半ばまでは欧米諸国による登山、探検、地質調査に付随した氷河調査や観察結果が種々報告された(例えば、Hauthal, 1904; Reichert, 1917; Shipton, 1964; Mercer, 1964、等)。また、空中写真、地上写真、地形図をもとにした氷河の分布と台帳がLliboutry (1956)とBertone (1960)により出版された。
 パタゴニア地域における組織的な大規模な氷河研究は、1983年から開始された我が国の科学研究費補助金(海外学術調査)『パタゴニア地域の氷河における水文・気象学的研究』(代表者:中島暢太郎、京都大学:所属は当時、以下同様)による氷河調査(Nakajima, 1987)が世界に先駆けて初めてであった。その後、代表者は成瀬廉二(北海道大学)、安仁屋政武(筑波大学)と代わりつつも(Naruse and Aniya, 1992; Aniya and Naruse, 2001)、研究は継続されて現在に至っている。また、1990年代半ば以降は、イギリス(Warren, 1993、他)、オーストリア(Rott et al., 1998、他)、アメリカ(Rignot et al., 2003、他)等のチームが研究課題をしぼって積極的にパタゴニアの氷河研究を展開するようになってきた。 上記の我が国による初の本格的な氷河学術調査は、1960年代後半に大学生・大学院生が主体となって実施された4つのパタゴニア氷河学術探検にその萌芽があった。それらの遠征隊の名称、期間、地域、目的を表1に示す。北大隊には成瀬廉二、六甲隊には岩田修二、京大隊には中島暢太郎(1922-2008)、井上治郎(1991年梅里雪山にて遭難死)および安成哲三、東工大隊には藤井理行が参加した。これらの学術的探検がほぼ同時期に集中したのは全く偶然で、それぞれ独立に実施されたものである。しかしその経験と知見が、研究への情熱と望郷の念とあいまって、10数年後に本格的学術調査への機運の熟成に資することとなった。
                       表1
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 本稿は、氷河の研究者、あるいは将来海外のフィールドで調査または探検を志す若手探求者を主たる読者と想定し、当時の報告書等から活動概要や観察結果の概要を抜粋あるいは要約し、あわせて回想と若干の示唆を述べようとするものである。
         
2.パタゴニア北氷原の氷河調査

2.1. 北大パタゴニア計画委員会と第1次パタゴニア調査隊
 北海道大学によるパタゴニア遠征の発案のきっかけは、1965年4月、雪の立山から東京へ出てきた北大山岳部OBの佐伯富男(第1次南極越冬隊)が,山岳部後輩の安間荘と遠藤禎一を酒場に呼び出して夜更けまで飲むうちに,誰からとなく「オーイ、どこかへ行こう」と言い出したことによる。
 安間は、1962年、外国隊のいくたびかの挑戦をこばんだチャムラン峰(7,319 m)に初登頂し、後に日本雪氷学会の副会長を務めた。遠藤は、実際は存在しなかった「幻の山」ナラカンカール(7,335m)の遠征隊員だった。佐伯は次のように回想している。「この二人も、騒々しい東京の生活にはうんざりしていたらしく、そろそろ雪と氷と澄みきった空のあるところへ脱出しようと言い、.....わたしは、あの南極の山水画のような風景、ブリザード、澄みきった青空、茶褐色の岸壁、幻の氷山(蜃気楼)、ブルーアイスの大陸が脳裡にちらついて離れなくなってきた」(佐伯,1974)。その後、3人は札幌や東京で奔走し、隊長に辻井達一(北大農学部)を、さらに西村豪(アマゾン遠征隊員)を引き入れ、同年夏過ぎには第1次パタゴニア調査隊の骨格が固められた。
 このパタゴニアの学術的探検を組織面、財政面、外交面で強固なものにするため、1965年7月、北大内にパタゴニア計画委員会が設置された。これは非公的な任意団体ではあったが、委員長に杉野目晴貞(学長)を迎えたので、外部には北大あげての遠征計画に見えたと思われる。
 第1次調査は、マゼラン海峡周辺(サルミエント峰など)、フエゴ島、パイネ山塊周辺の植物学的調査と登山活動・地質学的観察を目的として1965-66年に実施された。登山活動は、大雪と強風のため登頂にはいたらなかったが、氷河に関する知見を得た。その後、広島大学にも同様なパタゴニア調査機運が高まり、第2次隊から第4次隊(1969年)まで両大学合同で調査計画を推進することとなった。1966年5月頃、帰国した第1次調査隊から、「パタゴニアの学術探検には氷河調査は不可欠」という誘いが北大低温研の大学院生にあり、第2次調査隊には成瀬廉二が氷河調査担当として参加することになった。このとき成瀬は修士課程1年であり、この遠征における未探査地への探検と初歩的氷河調査は、その後の同人の研究の原点となり、爾来パタゴニアには計11回訪れたことになる。 

2.2. エクスプロラドーレス川流域の氷河(第2次調査隊)
 第2次パタゴニア調査隊(吉田博直隊長)は、1967年1月、鉄鉱石輸送船にて千葉を出港し、太平洋大圏コースを無寄港で30日後にチリ北部の港に到着した。サンチャゴにてメンバー6名全員の初会合では、前年の調査後チリに滞在していた遠藤・西村から事前の情報収集にもとづく調査計画(地域、移動手段、日程)の概要が提案された。氷河については、1944/45年の空中写真をもとにした25万分の1の暫定地形図と氷河概略分布図(図2)しかなかったので、「このあたりへ行ってみて、行けそうだったらこの氷河を探ってみよう」というようなもので、日程も現在では考えられないほど大まかなものであった。
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図2.パタゴニア北氷原北部の氷河分布図(Lliboutry, 1956を簡略・加筆).
  E:エクスプロラドーレス川、C:シルコ氷河、P:パンパ・デ・ニエベ氷河、S:ソレール氷河、R:サン・ラファエル氷河、V:サン・ヴァレンティン山(標高3,876mと記されているが、後に4,058mとされ、さらにチリ地理局の地形図では3,910mとなった).

 同隊は、チリ・パタゴニア北部の港町プエルト・アイセン(PA)を拠点とした。そこから、フィヨルドの中に点在する開拓牧場を巡る週一回の定期連絡船を利用して、エクスプロラドーレス(E)川の河口の牧場内にベースキャンプ(BC)を設営した(2月21日)。地質班は持参したゴムボートによりタイタオ半島内の調査を行い、氷河・植物班は牧場にて馬を借りて物資を運び、E川を遡江した。
 最初に訪れた氷河はサン・ヴァレンティン(V)山(3,910 m)北側のシルコ氷河(後に、グロッセ氷河と命名)であった。E川の支流シルコ川を上ると、高さ100 m程のモレーン丘があり、その上流側にはシルコ氷河が存在すると予想していた。しかし、「モレーン丘を越えたとき、そこで見たものは、白く輝く氷の塊りではなく、上流へはるか数キロメートルまで相変らず谷を一杯に埋めた黒いモレーンの岩砕であった」(成瀬、1974)。成瀬は、夢にも見るほど憧れの氷河に初めて対面するはずだったため、その落胆の度が大きかったことは言うまでもない。気を取り直して、モレーン原の上を200-300 m歩く内に、岩塊の隙間から白い物が見え、ピッケルで掘り出したところ氷であることが分かった。つまり、このシルコ氷河下流部から末端部は岩屑に被われたデブリ・カバード氷河であったのである(図3)。
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   図3.シルコ氷河.背景はサン・ヴァレンティン山北壁(1967年2月).

 次に、シルコ氷河からさらにE川を15 kmほど上流に進み、パンパ・デ・ニエベ氷河に到着した。この氷河名は、現地の人々が呼んでいた名前であり、「雪の原っぱ」の意味である。図2の地図では、Gl. S. Valentin E.(サン・ヴァレンティン東氷河)と記載されているが、無名氷河だったため著者が仮に名づけたものと思われる。この氷河の涵養域はサン・ヴァレンティン山の北東斜面であり、消耗域は山麓氷河のように横断方向に広がる氷河である。末端付近の1kmくらいはデブリで被われていたが、それを除く氷河下流域は土砂等がない、白く、きれいな、雄大な氷河で、クレバスは多いが全体に平坦な表面であった(図4)。なお、本氷河は後にエクスプロラドーレス氷河と呼ばれ、1990年代後半から日本の研究対象氷河の一つとなった。
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   図4.パンパ・デ・ニエベ氷河.背景はサン・ヴァレンティン山東尾根.

 3月3日、予定通りBCに帰着し、全員集結した。その後、アイセン州の巡視船にてPAへ帰る途次、フィヨルドの最奥にあるサン・ラファエル氷河を予察した(図5)。この氷河末端の高さ数10 mの氷壁から、1時間に1、2回、巨大な氷塔がフィヨルドに崩れ落ち、轟音とともに大きな水しぶきと水面のうねりを発生させる。巡視船は氷河末端から数100 mのところに停泊し、ゴムボートにて末端右岸へ向かい、サイドモレーンから氷河へ上陸し、クレバスとセラックスの激しい氷河上を少しだけ散策することができた。本氷河は、1983-85年の調査地の一つとなった。
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        図5.サン・ラファエル氷河の末端(1967年3月).

2.3. 北氷原の東側の氷河
 PAへ戻った後、3月11日、トラックと航空機を乗り継いでアルゼンチンとの国境に近いチレ・チコの町へ着いた。ここはパタゴニア・アンデスの東側に位置するので、かなり乾燥気候である。氷河班(遠藤、関太郎、成瀬)は、チレ・チコからヘネラル・カレーラ湖を定期船で西へ縦断し、プロモ湖を手漕ぎボートで渡り、ソレール川の河口に到着した。ソレール川の流域には牛と羊を放牧する牧場が2戸あった。河口の牧場にて馬6頭を借り、ソレール川に沿い上流へ向かった(図6)。
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        図6.ソレール川に沿うキャラバン.

 馬方が「あっちに大きな氷河がある」と言うので、その先導で尾根を登り、雄大な氷河を俯瞰した。それは、北氷原から東へ流出する幅3km程の広大な谷氷河、ネッフ氷河であった(図7)。
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   図7.ネッフ氷河(1967年3月).谷の側壁に植生のない帯が見られるが、近年の氷河の後退の結果である.

 そこを偵察した後、3月20日、規模がひとまわり小さいソレール氷河の末端モレーンに到着した。ソレール氷河の右岸側半分はパタゴニア北氷原からアイスフォールを経て溢流した氷体で(図8)、左岸側半分はヒャーデス山(3,078m)の南壁からアイスフォールと氷なだれで供給された氷体である。この氷河に1週間滞在し何らかの観測を行うことにした(図9)。
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  図8.ソレール氷河(右岸)末端付近のセラックス地帯(1967年3月).
   現在(1995年以降)は氷河が後退し、この付近は池となっている.

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  図9.ソレール氷河の末端のモレーンにて.後列左の2人は馬方のロメロ親子、その右へ遠藤、関、前列が成瀬.背景は氷河のセラックス地帯(図8).

 この遠征で持参した氷河調査用具は、自分一人で装備とともに背負える範囲という制限により、ハンドドリルと折り尺と温度計のみであった。この他に、行動用として双眼鏡、トランシーバー等があった。これらを駆使して、何らかの調査、観測を行うことを考えた。まず、氷河の流動速度測定のために、現場にて遠藤と議論、相談し、「見通し法」を考案して実施した(この方法は、世界中では当然誰かが行ったことがあるに違いないが、その時および帰国後調べた限りにおいては、記述したものは見つけられなかった)。
 その測定法は以下の通りである。氷河の両岸のお互いに見通せる位置に定点を設け、ケルン等の大きな印をつける。一方の定点から双眼鏡で他方の定点をのぞきながら、氷河上の協力者にトランシーバーで指示し、見通し線上に立たせる。その線上の測点にドリルで穴を開け、標識の棒(木の枝)を設置する。翌日または数日後、同様の方法で協力者を見通し線上に誘導し、その線から標識までの距離を、氷河の流動方向と思われる方向に沿って紐または巻尺で測る。
 以上の観測の結果、氷河消耗域中流部にて4日間の流動量として1.4 mと1.8 mが得られ、1日の平均流動速度は40 cm/dayであった(成瀬・遠藤、1967)。この値は、後年の精密測量やGPSによる測定結果とほぼ一致するものであった(Naruse et al., 1991)。また、氷河消耗域5点の平均融解深は9.2 cm/dayであった(図10)。この期間の気温はかなり高く、平均約+12°Cであった。
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   図10.氷河の融解量の測定.ドリルで開けた氷の穴に標識の棒(ノトロの枝)を設置し、棒の高さを折り尺で測る(左、成瀬、右、遠藤).

 「シトシトと降り続いていた雨が、流動観測が終わった26日夕方から激しくなった。気温は比較的高く、雨水は氷河の氷をも融かし、氷河の末端から流れ出ていた川は、濁流となった。我々は少し小高いモレーン丘の間にテントを張っていたので、流される心配はなかった。.....27日、迎えの馬が来る予定日である。雨は相変らず激しく、川は前日より更に増水した。.....とうとう夕方になっても馬は来なかった。テントの中はシラフまでびっしょり濡れ始めた。濡れる位のことは夏だから問題ない。.....しかし、この時心細かったのは、食糧がほとんど残っていなかったからである。.....実は、大変ずさんな食糧計画であったわけだが、後半の調査2週間の3人分の食糧は、米と塩と羊1頭の3種類だけだったのである。.....羊肉と言っても、頭つき、骨つきの丸ごと一頭である。これを南京袋に入れて、馬に積んでここまで持ってきた。毎日ナイフで適当な部分を切り取って食べた。ヒレは大変うまかった。.....その内、絶望的なことに、羊肉に激しくウジがわいていることが分かったのである。今までは、雑炊として食っていたので、米粒と区別がつかなかったのだろう。.....翌28日、雨は小降りになった。しかしまだ2~3日は動けぬだろうと、一日一食に決めて朝から寝ていたのである。.....ところが昼近く、馬方親子は勇敢にも、馬数頭を連れて川の対岸まで迎えに来てくれたのだ。勿論、馬に乗ってでも川を渡ることはできない。我々はテントを撤収してから、氷河を少し登り、下流部分をぐるっと捲いて、ロメロ親子の待つ対岸へ着くことができたのであった。.....それからは、幾度かスリリングな渡渉を繰り返して、2日後にプロモ湖畔に到着した」(成瀬、1974)
 その後、チレ・チコ、コヤイケを経由して、4月10日サンチャゴへ帰着した。帰国の船便の都合にて、それから約1か月、サンチャゴおよび周辺で各人自由行動にて過ごすこととなった。

3.南氷原を横断してウプサラ氷河へ

3.1.六甲学院山岳会のパタゴニア登山計画
 神戸の六甲山の麓にある中高一貫の男子校が六甲学院で、その山岳部は高校生の割には活発に活動しており、冬山合宿を日本アルプスでおこなっていた。その卒業生が、外国の氷河のある山で登山したいと考えた。1967年はじめのことである。当時、ヒマラヤやカラコラムは登山活動が禁止されており、アジアではヒンズークシュ(アフガニスタン)だけが登山可能だった。そこで世界に目を広げると、われわれが行けそうで魅力的な地域としてパタゴニアがすぐに思い浮かんだ。1957-58年に神戸大学が北氷原のアレナレス峰に初登頂し、副隊長の高木正孝さんの講演が全校生徒の前で行われたこともあったからであろう。
 当時、明治大学にいた岩田は、日本山岳会のルームで外国の山岳会の機関誌から情報を収集し、北大の第1次パタゴニア調査隊の遠藤禎一さんから現地情報を聞いたりした。六甲隊は隊長と隊員4名で構成されていた。隊員の1人は京大山岳部の現役部員であったから、京大の探検部がパタゴニア探検を計画していること、しかもその隊員に六甲学院山岳部のOBである井上治郎と安成哲三が入っていることはすぐわかった。1968年春には、岩田は、大学の同級生から(母校の女子高の山岳部のコーチである)東工大ワンゲル部がパタゴニアへ行くという情報を得て、藤井理行と知りあった。このようにして、出発前から京大隊と東工大隊とわれわれとは密に連絡を取り合い、協力体制を作っていた。京大隊の中島隊長からは氷河学の基礎的な教育を受けることができた。
 われわれの計画は、太平洋側(チリ)のフィヨルド地帯から南氷原に上陸し、未踏の氷原部分をとおってウプサラ氷河の源頭にでてアルゼンチン側に抜ける、そしてその途中の分水界にあるリソパトロンという3000 mほどの未踏峰に登るというものであった(図11)。隊の目的は未踏の氷河地帯の踏査と登山であったが、地理学専攻の学生であった岩田は地図作成や氷河や地形の調査もしたいと考えていた。図11に示したように、チリ側の出発点であるフィヨルド・エクスマウスの南側に京大探検部隊の活動したフィヨルド・ファルコンがあり、終点近くのアルゼンチン側ウプサラ氷河とその周辺で東工大隊が活動した。
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    図11.パタゴニア南氷原中央部での1968-69年の3隊のルート.
六甲学院隊(破線)、京大探検部(点線)、東工大隊(xxxx)を示す(六甲学院、1969に加筆).

3.2.氷原横断
 1968年11月に日本を出発し、12月末にチリ側パタゴニアのフィヨルド地帯の核心部プエルトエデン(PE)に到着、岩田と安成は周辺部の地形地質の調査をおこなった。当時、安成は古地磁気の調査を卒論のテーマにしていた。
 1969年1月6日にモーターボートでエクスマウス峡湾の奧に上陸し、連日の雨の中でNothfagus (ナンキョクブナ) の密林を荷揚げして1月24日南氷原の西端に達しキャンプ (C4) を設営した。分水界の西側の氷原はほぼ平らで海抜高度は1200 m前後、足首まで潜る程度の積雪であった(図12)。
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         図12.南氷原西側のキャンプ(1969年1月).

 人曳きのナンセン型のソリを組み立てて荷を載せダブルボッカを繰り返しながら東南方向に進んだ(図13)。スキーは持参したが、ソリを曳くときは輪かんじきを履いた(図14)。
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        図13.チリ側の氷原上を南東にソリを曳いて進む.
  1969年2月1日だんだん晴れてくる.正面がアルゼンチンに抜けた峠.

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         図14.氷原上のソリ曳き.右端が岩田.

 チリ側の氷原上では天候はまずまずで降雨や降雪が連日あったが激しくはなかった。めずらしく2月1日〜3日は晴天であった。2月15日分水界(国境)の鞍部(2000 m)に達し、翌日には隊員2名が鞍部の東南側にあるリソパトロン第6峰(2900 m)に登頂した(図15)。
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         図15.リソパトロン峰.

 2月19日。峠からウプサラ氷河の流域に下り1700 mにキャンプを設営した (C10)。「風速20 m位の中、クレバスの出てきたところで沈。すごい風とみぞれ。全身びしょ濡れ」(岩田の野帳から;以下同じ)。その夜から風雪が強まり、翌日からは行動できず連日テントの除雪に追われた。21日からは食料を減らす。22日夜から、積雪量が増す。24日朝、ドカドカという風の音が収まったので嵐がやんだのかと思ったらテントがてっぺんまで雪に埋まっていた。25日には雪の下でテントをたたんで雪洞にした。入り口のまえに前室を掘り広げ出口の縦穴を確保した。前室の天井からは水がずっとしたたり落ちていた。27日には雪の下のソリやスキーの掘り出しをあきらめた。縦穴を通して風の音があいかわらずドスドスと聞こえる。28日には縦穴の深さは5 mになった(図16)。
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         図16.ウプサラ氷河源頭での激しい積雪.
  1969年2月19日から3月1日にかけて計5mの積雪があり、南極型のピラミッドテントが埋没し雪洞生活になった.

 3月1日にはようやく風が衰えたので個人装備とテント1張り、最低限の炊事用具、食料7日分、ロープ40 mだけをもって雪洞を10時すぎに出た。軽くするために多くの装備を捨てた。アイゼンも1足だけ残して捨てた。荷物は各自のサブザックだけになった。「穴をでて、1ピッチ(45分)で平らな雪面にでた」。1時間ほどで雲の下に出て、雪が止み、行く手に平らな雪面が拡がっているのが見えた。アルゼンチン側の氷原に降り立ったのである。「夕方クレバスがでてくる。3〜4本クレバスをこえた所で幕営」(C11)。

3.3.ウプサラ氷河消耗域
 3月2日。小雨。雪面がザラメ状になってきた。「トビムシ2回採集。木クズ3回。ひからびた鳥の死ガイ。骨がでている」。クレバス帯に遭遇した。突然クレバスを踏み抜いたが腕を広げて止まった。恐ろしいことにそのときはロープをつけていなかった。落下をふせげたのは幸運であった。高度1200 mでフィルンラインを越え裸氷域になった(図17)。ネットワーク状(方向N45度E / N35度W)になったクレバス帯のまん中で幕営(C12)。
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         図17.ウプサラ氷河を下る.

 3月3日。雨。クレバス帯は終わり再びフィルン帯になる。つぎはブルーの氷のゾーン。美しい。パドル(水たまり)がひろがりトビムシが多い。やがて氷河上に蛇行する水流が現れ、それらはムーランに消えた。こんどは閉じたクレバスとクリアーバンド (N40度E) が多数現れた。氷河の表面が黒いダスト(砂とシルト)におおわれ、狭いクレバスが現れる。氷河表面に、流下方向に平行な縞状の凹凸が現れる。ダートコーンや高さ1 mくらいのペニテンテが現れる。氷河表面に大波のような起伏がでてきたが通過に支障はない。夕方になって左岸に氷河から簡単にあがれるテラス状の場所をみつけた。そこには古いキャンプの跡があり、われわれもテントを張った (C13:図18)。あとでアルゼンチンの大陸氷河研究所の氷河調査隊のものであることがわかった (Haar, 1961)。ウプサラ氷河と対岸の山が一望にできた(図19)。
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         図18.ウプサラ氷河左岸のキャンプ.

              
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    図19.ウプサラ氷河下流部と対岸のセロ・ムラリョン(3600 m).
 1969年3月4日C13から撮影.ここはアルゼンチン大陸氷河研究所のキャンプ跡で、残置されたコンビーフの巨大缶詰にありつけた.
 
 3月5日。再びウプサラ氷河上に戻り左岸沿いに下流に向かった。一面にクレバスがひろがっていた。クレバスとクレバスの間はリッジ状になっており、アイゼンを履かないわれわれには歩きにくかった。クレバスを渡る場所を求めて氷のリッジの迷路をジグザグに歩きながら下流へ進んだ。氷のリッジは、日射の影響で北向き(上流向き)斜面が緩やかな非対称形であることと、氷の結晶が大きく摩擦があったので助かった。午後になるとシプトン隊が「クリスチーナ牧場に通じる峠」(Shipton、1963:197)と呼んだ窪みが見えてきた。今日中に氷河から抜け出せることが確実になった。
 そのとき不意に氷河から離れるのがさびしくなった。ウプサラ氷河で目にした光景は壮大で驚異に満ち、氷河表面の現象は興味深かった。もっと長く氷河の上に居たかった。「氷河の研究をしたい」と思った。
 夕方になって「峠」の下まで来ると、取り付きの氷河が融けて氷河湖ができておりシプトンのルートが使えないことがわかった。湖の浮氷の上にテントを張った。
 翌日、テントを残置し、湖の東側、左岸の岩尾根に登り、反対側のU字谷の岩壁をロープを使って下り、モレーンリッジを越え、深い渡渉をし、ロシュムトネの陰でビヴァークした。翌日、クリスチーナ牧場に着いたのは3月7日の午後3時、ちょうど母屋の居間ではお茶の時間であった。上陸地点からクリスチーナ牧場まで60日かかったが、47日は半日以上続く降水があった。荒天で行動できない日は合計10日であった。

3.4.その後
 日本に帰った岩田は、下記にあるように、1969年の秋に藤井と再会し、お互いが氷河の研究を志していることを知った。藤井はすでにアルゼンチンの氷河目録を翻訳していた(ベルトーネ、1969)。ふたりの、当面の課題は、それぞれの隊の報告書を編集・刊行すること、その中に学術的な報告(のまねごと?)を書くことであった(岩田、1970;藤井、1971c)。その後、藤井と岩田は、パタゴニアの氷河変動に関する先行研究のレビュー論文をまとめることをめざし、多くの論文を読み、カード化していたが、1973年からヒマラヤの氷河研究プロジェクトが始まったため、未完成のまま終わった。
 当時学部生であった岩田にとっては、ウプサラ氷河を源頭から末端近くまで歩いたことが、氷河研究の途に進む契機になり人生を決めた。おそらく、次項以下の、藤井や安成にとってのパタゴニアも、その後の研究人生に進む重要なきっかけになったのであろう。               (岩田修二)

 
  =(後編)につづく=


 [日本雪氷学会誌「雪氷」73巻第1号(2011年1月)、15-27、報告『パタゴニア氷河研究の萌芽―1960年代の学術探検―』を加筆、編集した] 




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