(2) 『パタゴニア氷河研究の萌芽-1960年代の学術探検- 』 (後編) 

=後編=
4.パタゴニア南氷原・HPS10氷河調査(京大)
5.南パタゴニアの氷河探策と登山(東工大)
6.あとがき
 文 献

=前編=
要 旨
1.はじめに
2.パタゴニア北氷原の氷河調査
 (北海道大学 第2次パタゴニア調査隊)
3.南氷原を横断してウプサラ氷河へ
 (六甲学院山岳会 パタゴニア登山隊


[著者]
 成瀬廉二(NPO法人 氷河・雪氷圏環境研究舎)
 岩田修二(立教大学 観光学部)
 安成哲三(名古屋大学 地球水循環研究センター)
 藤井理行(国立極地研究所)


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        エカウク湖からHPS10氷河の源流を望む
(中島暢太郎撮影.「パタゴニア氷河紀行」中島・近藤著、リブロポート、より)       


4.パタゴニア南氷原・HPS10氷河調査

4.1. アンデス委員会と調査隊発足
 1967年末頃、京都大学探検部内に2つの計画が立案・検討されていた。一つはボリビア栽培植物調査隊、他は京大学生3名(安成を含む)が中心になって計画していたチリ・パタゴニアの学術探検であった。後者の計画では、まずは隊長を探すのが急務であった。「隊長の“価値”は、まず何よりも、資金調達をしてくれる、ということである。そして、現地での行動を、テーマにそって、より実り豊かなものにしていく手腕がある、ということであろう。そのためにも、野外での調査や観測を通しての科学に身をおく研究者、それも、ぼくたちのような考え方に理解のある人が望ましかった」(安成、2004)。有力な隊長候補であった樋口明生(京大防災研究所)がヒマラヤの計画に関わるため辞退し、同研究所教授の中島暢太郎が引き受けることになった。
 1968年4月、ボリビア植物隊とパタゴニア隊を、資金調達と対外交渉の便宜をはかるため、探検部長・四手井綱英(農学部)の判断でひとつに統一し、京大探検部アンデス学術調査計画委員会が発足した。パタゴニア隊は、同隊のチリ・パタゴニア氷河・古地磁気調査班となり、メンバーは隊長の推薦により副隊長としてAACK(京大学士山岳会)の寺本巌および気象観測担当として井上治郎(地球物理大学院生)が加わり、安成哲三(地球物理学科3年)等を含め計6名となった。

4.2. 調査経過
 以下、隊員井上民二による「行動記録」(アンデス報告書)から抜粋して、調査活動の経過概要を示す。
 1968年11月30日(11.30)までに全メンバーが、航空機または鉱石輸送船にてチリへ入国。
12.9:チリ海軍輸送艦「アギラ号」にてバルパライソ出港。プエルトモント付近にて六甲学院隊4名乗船。
12.16:「アギラ号」、パタゴニアのフィヨルド内、プエルトエデン(PE)着(図20)。
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         図20.プエルトエデンのチリ空軍観測所.

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         図21.プエルトエデン周辺地図.

12.18:日本から持参したモーターボート「きょうと号」(全長4.5m)にてピオXI世氷河方面の偵察へ(図21)。途中、エンジン故障のため航海不能、漂流状態。
12.21:PEの留守メンバーがチリ空軍のボートにて捜索、救出し、PE帰着。
12.22~12.25:物資整理、湖沼調査、クリスマス会。
12.28~29:日程の都合でピオXI世氷河へ入ることを断念。空軍のボートにてファルコン・フィヨルド方面の偵察。HPS10氷河のみアクセス可能と判断。
12.30~1969.1.2:旅行準備、正月祝い。
1.3。漁船「モロッコ号」にてHPS10氷河へ向けてPE出港。海岸キャンプ(DC)設営(図22)。
1.4~1.10:(仮称)エカウク湖の岸にベースキャンプ(BC)設営。DCからBCへ人力により物資運搬。
1.11~1.14:エカウク湖をゴムボートで縦断し、HPS10氷河へ上がるルートを偵察(図23)。左岸の、氷河に磨かれたつるつるの露岩地帯にルートを選定。
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         図22.HPS10氷河の調査域概念図.

 
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         図23.HPS10氷河へのルート偵察(1969年1月).

1.15:氷河へ荷揚げ。中島隊長はこの日だけ氷河へ上がり、岩場で苦労するも満喫。帰途、風雨強くなり、ゴムボートは波をかぶりびしょ濡れ。湖面の水位が半日のうちに50cm以上上昇し、BCは水没、テントは風で20mほど飛ばされる。
1.19:中島は、大学の公務のため、キャンプを離れ帰途へ。その後、パタゴニア南部のパイネ地方・他を約20日間旅行し、2.12帰国。
1.20~1.31:HPS10氷河調査(気象観測、見通し法による氷河流動測定、氷結晶観察、湖流量調査、昆虫採集、ほか:図24)。また、氷河上の水たまりに数十匹の昆虫が元気に泳いでいるのを発見。1月はついに毎日雨が降った。
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   図24.HPS10氷河上の観測キャンプ.奥に調査中の2人が見える.

2.1~2.3:観測機器撤収。無名峰(2,012 m)登頂。この3日間は、晴または快晴。
2.4:BC出発。PE在住の神父のモーターボート「サンハビエル号」(サン号:図25)にて2.6.PE帰着。
2.8~2.9:残置装備回収のためサン号にて再度DCへ。回収時、ゴムボート転覆により2隊員が氷山の海へ転落。すぐ救出。

                 
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         図25.モーターボート「サンハビエル号」.

2.10:サン号にてフィヨルド内の調査航海。「日程は、PEのあるウェリントン島から太平洋岸に散らばる大小の島々をぬって約500km、6日間。目的は、南米大陸移動の証拠あつめ、である。.....具体的には岩石を採集して古地磁気学調査をするのである。.....古地磁気を調べるためのサンプルは基岩から採ったものでないとだめである。転石はもとの磁化の方向がわからなく、用をなさない。ところが基岩は一般に堅くて、割りとりにくい。.....こつは、ハンマーでたたき、もう少しで取れるという状態にしておき、クリノメーターで方向を記しておく。そして軽くたたいて割りとる」(安成、1970:図26)
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図26.岩石サンプリングに向かうバエレマエケル神父と安成(1969年2月).

2.16~3.6:湖調査、地質調査、荷物整理、休養。  
3.7:貨客船「ナバリノ号」にてPE発、3.12。サンチャゴ着。
 その後、各人それぞれ資料収集、登山行動、旅行を行い、5月初~末帰国。

4.3. 調査結果
 「HPS10(Hielo Patagonico Sur No.10)氷河は全長約10km、幅約2~5kmで落差は約1,000mである。末端は、直径1kmあまりの深い湖に落ち込んでいる。この氷河の末端部から少し上流の比較的平坦なところを選んで1969年1月15日から約1週間観測を行った。氷河の流動速度は1日約50cm、氷河面の融解速度は1日約5cmであった。まだ資料は完全に整理されていないが、氷河上で太陽放射、気温、湿度、風速などの観測を行った」(中島、1970)
 また、報告書(1970)の中で中島隊長は2人の若き雪氷研究者について次のように述懐している。「井上治郎君は京大山岳部での指導者経験からいろんな面で充分実力を発揮してくれた。しかし、学術か登山かということで最も悩んだのではないかと思っている」、「安成君は今度の隊の成立に対する最大の功績者であろう。彼のまちがっても転んでもひたすら前へ進んで行く行動力には感心する。しかし、一面彼のいう通りについて行くとどんな危険な事に出会うかという不安感は取り去るわけには行かない」

5.南パタゴニアの氷河探策と登山

 東京工業大学パタゴニア遠征委員会の遠征隊(藤井理行隊長等4名)は、1968年9月3日横浜を出港し、パナマ運河を経由して10月18日アルゼンチンのブエノス・アイレスに到着した。しかし入国後、物資の通関に35日を要するという、日本からの遠征隊では過去に例を見ない事態となり、以後の登山・探検活動は規模の縮小を余儀なくされた。
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      図27.パタゴニア南部の遠征経路図.点線が踏査ルート.  

5.1. 行動経過
 1968年11月21日(11.21)通関完了。(以下、図27参照)
11.25:ブエノス・アイレス発、リオ・ガリェゴス着。
12.4:アルヘンティノ湖を船で横断し、クリスチーナ牧場着。
12.6-8:セロ・プランチョン峰(2,405 m)登頂。
12.12-13:ウプサラ氷河探策。
12.20:モレーノ氷河探訪。
1969.1.3:プンタ・アレナスからマゼラン海峡を渡り、フエゴ島着。
1.10-13:ウスアイア近郊のオリビア山(1,470 m)登頂。
2.10:ブエノス・アイレス帰着。
 各人、各地旅行の後、4月空路帰国した。

5.2.パタゴニア氷河紀行
 藤井による氷河紀行から以下にいくつか抜粋する。
 「南米南部、南緯40度のリオネグロから南緯55度のフエゴ島に及ぶ荒涼とした台地と、氷河を抱くアンデス山系が、日本の2倍半以上の土地に広がる所-パタゴニアだ。 このパタゴニア、世界でも名だたる荒天地帯と言われるだけあって、パタゴニア入りしてから1ヶ月半というもの連日小石を吹き飛ばし、アルヘンチノ湖に三角波をたてるアンデス下ろしの強風が吹き荒れていた。"万年雪”の異名をもつプランチョン峰の初登頂(図28)と、この地域最大のウプサラ氷河探策とを無事終えた.....」
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図28.セロ・プランチョン頂上にて(藤井).後の山はセロ・ノルテ(2,950 m).

 「モレーノ氷河末端(5~60 mの高さ)から大音響とともにくずれ落ちた氷塊が浮かぶ浮氷峡江の岸に、たどりついたわれわれは調査用のゴムボートを組立て始めた。アルヘンチノ湖の水温は3~4°C。その幻想的な青濁色の水の中に落ち込んだらもう終わりである。気やすめとは知りつつ救命具を身につけ、命綱を体に結び、僕ともう一人の隊員を乗せゴムボートをこぎだした。.....何と素晴しい世界であろうか。自然の美の極致を見る思いだ。....."盲、蛇におじず"がごとく、われわれは冒険を楽しんでいた(図29)。きのこ形の氷塊の下をくぐったり、氷河本体に200 mくらいまで近づいたり.....。こうしてモレーノ氷河浮氷峡江の調査を終え、岸にもどるや否や、大音響が周囲の山々に響きわたった。氷河末端から高さ5~60 mもの氷柱がくずれおちたのだ。このショックを受け、まず先程くぐったきのこ形の氷塊も大きな波紋の中に、浮き沈みしている。.....おびただしい数の氷塊が、どんどん流れてゆく。そしてあたりの景観は、もうすっかり変わってしまった」(藤井、1971a)
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        図29.モレーノ氷河末端周辺の湖(1968年12月).

 世界最南の町ウスアイア北東約10 kmの所に、奇々としてそびえる岩峰のオリビア山がある。以下はその登頂記からの抜粋である。
 「いよいよ最后のアタック開始である。アマリージョ(ウスアイア山岳会)がトップを申し出た。この地点から岩を巻くようにしてルンゼに取りつこうと試みる。しかしルンゼに取りつく手前は大きく切れていて、恐らく数100 m落ち込んでいるだろう。しかし濃いガスが恐怖感を感じさせない。.....そんな時、上から声がしてきた。少しずつザイルを何だか無意識のうちに送り出しているうちに彼はもうかなり高度をかせいだのかも知れん。風に流され、良く聞きとれなかったが、どうやら頂上に立ったらしい。”フヒ(藤井)、頂上に着いたぞ、さあ来いフヒ”、”そりゃ、いいぞ”。 彼の後に続き頂上に達したのは時にして13時50分。風もなく雪が静かに舞う頂上で、良きパートナーたるアマリージョと堅い握手を繰り返した。ぐっとこみあげてくる熱いもの、それは我々4人の長い遠征を総括する以外の何ものでもなかった」(藤井、1971b)(図30)
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   図30.オリビア山中腹から見たヴァルディヴィエッソ山脈とオリビア川湿地.左奥の山がセロ・サンマルチン(1969年1月).

 この遠征と同時期にパタゴニア南氷原を横断した六甲学院隊の岩田修二と、帰国の半年後(1969年秋)、立山のワークショップにて期せずして再会したときの回想を以下に示す。
 「小疇尚先生が連れて来られた明治大学学生の岩田修二さんに偶然再会したのもこの時のことである。岩田さんとは、1968年の春頃パタゴニア遠征の準備に夢中になっていた時に会っていた。六甲学院高校山岳部のOBとして、やはりパタゴニア遠征の準備をしていた岩田さんから手紙をもらい、情報交換をしようということで大岡山で会ったのである。岩田さんは、驚いたことにパタゴニア探検のバイブル的名著であるE.シプトンの"Land of Tempest"の原書を読破していた。この彼に我々から与えられる情報などはなく、ただ彼からいろいろ教えてもらったのである。パタゴニアからもどってから、二人は地形学、雪氷学から氷河の世界に入り込もうとしており、それがこの立山、弥陀ヶ原での再会となったのである」(藤井、1997) 

6.あとがき

 以上の学術探検以外にも、1950年代後半から10年余りの間に、日本の大学等のクラブによるパタゴニア氷原や氷河の探検活動が多く行われた。別に、この時期に外国人に開放されるようになったとか、パタゴニア地域の調査許可が取得しやすくなったとかの外交的や現地国の事情は特になかった。当時の日本は、東京オリンピック(1964年)前後の経済成長著しい時期ではあったが、1US$360円の固定相場、かつ外貨の入手にも制限があり、国際航空運賃は現在よりはるかに相対的に高値であったため、庶民が手軽に航空機を利用するという状況にはなかった。
 本稿で述べた一連の若者による「氷河探検」の約10年後、1980年頃だっただろうか、井上、藤井、岩田、安成、成瀬のパタゴニア経験者たちが、会議だったか立ち話だったか宴席だったか記憶が定かではないが、「パタゴニア氷河の本格的な調査計画を立ち上げるべき」だという"決議"がまとまった。とは言え、他のメンバー達はヒマラヤ・その他のプロジェクトに関わっており、2度の南極越冬とその成果のとりまとめが終り自由の身となっていた成瀬が、科学研究費によるパタゴニア氷河研究計画の世話役(推進役)を務めることになった。研究代表者には中島暢太郎を仰ぎ、1983/84および85/86年に現地調査が実施された。この調査活動に参加した日本の氷河・気象関係の研究者は以下の通りである。彼らの力により、「探検」が「科学」に進展することになった。
 中島暢太郎、成瀬廉二、小林俊一、安仁屋政武、大畑哲夫、斉藤隆志、幸島司郎、榎本浩之、近藤裕史、山田知充、井上治郎、末田達彦、藤吉康志、深見浩司、永尾一平、福沢卓也。

                     文 献

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       Beginning of glacier researches in Patagonia, in the late 1960s

Renji NARUSE (1), Shuji IWATA (2), Tetsuzo YASUNARI (3) and Yoshiyuki FUJII (4)

1) (NPO) Glacier and Cryospheric Environment Research Laboratory, 2-339, Higashi-machi, Tottori 680-0011.
2) Faculty of Tourism, Rikkyo University, Kitano, Niiza, Saitama 352-8558.
3) Hydrospheric Atmospheric Research Center, Nagoya University, Chikusa-ku, Nagoya, 464-8601.
4) National Institute of Polar Research, 10-3, Midoricho, Tachikawa, Tokyo 190-8518.


 [日本雪氷学会誌「雪氷」73巻第1号(2011年1月)、15-27、報告『パタゴニア氷河研究の萌芽―1960年代の学術探検―』を加筆、編集した] 








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