九州9日間の旅 (別府、宇佐、阿蘇山、熊本、島原、雲仙岳、長崎、小倉)

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 Photo: 南阿蘇村から見た阿蘇連山(2016.12.2).右端の急峻な岩峰は根子岳(1433 m)、その左の高い山が高岳(1592 m)、中央のやや低い山が中岳(1506 m)、その左の山が烏帽子岳(1337 m).
瀬戸内海を西航して九州へ
                                  投稿日:2016/12/08、No.307

 本州と四国をつなぐ橋は、兵庫県~徳島県、岡山県~香川県、広島県~愛媛県と、各県平等に計3本ある。過去10年の間に、これらの3つの橋を車で通ったことはあるが、高速道路(橋)を走るだけでは瀬戸内海を渡った気がしない。

 いつか機会があったら、瀬戸内海を縦に(長軸方向に)航行し、海から島々を眺めてみたいと思っていた。ということで、今回の九州旅行では往復を船旅とすることにした。

 近畿(大阪または神戸)と九州北東部(大分または門司)を結ぶフェリーは、2社がそれぞれ2コースの往復を毎日運航している。残念ながらすべて18-19時頃発、06-07時頃着の夜行便である。

 春~夏ならば、夕暮れ時や夜明け頃の景色を楽しむことができるが、秋~冬では陸のライトの点列以外何も見えない。しかし利用者の大半にとっては夜行のほうが好都合なので、これは致し方がない。

 11月29日夜、フェリーさんふらわあ「ごーるど」にて神戸六甲アイランドを出港した。同船は11,200トンで、南極観測船「しらせ」11,600トンとほぼ同じ大きさである。船は全く揺れることなく、西大分港へ向かった。

べっぷ地獄
投稿日:2016/12/12、No.308

 「ごーるど」は、30日06:30大分港の西埠頭に着いた。この時期、九州では紅葉の盛りであるが、フェリー乗船者の中で観光客とおぼしき人は非常に少ない。主要な客は、大型トラックやコンテナー車と、それらの運転手である。

 九州へ来たのは今回で6度目だが、各地をゆっくり巡るのは初めてである。まずは別府に向かった。別府と言えば温泉、その別府温泉郷は自噴湧出量では草津温泉に次いで日本第2位、動力湧出量では第1位である(日本温泉協会、2000)。

 別府温泉または同温泉郷とは、別府市内にある8つの温泉地の総称である(8つの一つに狭義の別府温泉がある)。その内の、鉄輪(かんなわ)温泉・柴石温泉地区には、海地獄、白池地獄、龍巻地獄、血の池地獄(写真)、という4つの国指定(2009年)名勝がある。

 地元では、古来、温泉噴出口を「地獄」と呼んでいたそうである。海地獄は涼しげなコバルトブルーの池、白池地獄は無色透明~青白色、龍巻地獄は間欠泉、血の池地獄は鮮やかな赤褐色である。
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 血の池地獄では、酸化鉄や酸化マグネシウムを含んだ赤い熱泥を噴出している、との説明書きがあった。酸化マグネシウムは無色~灰白色なので、血の池の赤褐色は酸化鉄の内の三酸化二鉄(Fe2O3)によるものであろう。つまり、鉄の赤さびや、顔料のベンガラと同種である。

 べっぷ地獄は、数km以内の範囲で非常に多彩な噴出形態と多様な色彩をもち、学術的にも価値が高いということが名勝に指定された理由の一つとのことである。

耶馬渓
投稿日:2016/12/15、No.309

 大分県北西部の中津市に、耶馬渓(やばけい)という渓谷がある。日本三景(松島、天橋立、宮島)にならい、ある出版社により「日本新三景」の読者投票が行われ(1916年)、三保松原、大沼公園とともに耶馬渓が選ばれた。今年は、それの100周年だそうである。

 耶馬渓へ行ってみることにしたのだが、観光マップ等では30-40 km四方の地域の中に、山国川本流の本(ほん)耶馬渓ほか、深・裏・奥・津民などの冠称つきの多数の耶馬渓がある。その中で、最も中心もしくは主要と思われる本耶馬渓を訪れた(写真:11月30日、岩峰の左は山国川)。
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 この地域では、新世代第三紀の終り頃の火山活動によって堆積した溶岩台地が後に浸食され、奇岩、剣峰、石柱などの岩石景観がつくられた(中津市観光サイトによる)。写真中央にて、縦に長く白っぽく見える岩壁は落石防御用のネットで被われている。

 その直下(左)に、名所「青ノ洞門」がある。18世紀半ば、諸国巡礼に来た禅海和尚がノミと槌だけで30年かけてこの岩峰に長さ144 mのトンネルを掘ったというものである。修行か、奉仕か、執念か、その労苦は想像を超える。なお、耶馬渓にはお遍路のための八十八ヶ所霊場がある。

 耶馬渓とは、中国の地名のように感ずるが、19世紀初頭、頼山陽が漢詩に詠んだことが名前の由来とのことである。したがって、邪馬台国とは文字と発音が似ているが、関連はないらしい。

宇佐の石橋
投稿日:2016/12/19、No.310

 耶馬渓から東の宇佐市へ行き、夕暮れ間近の時、宇佐神宮にちょっとだけ立ち寄った。全国に約11万の神社があり、そのうち八幡宮が最も多く4万社余り、宇佐神宮はその総本宮だそうである。境内はさすがに広い。速歩でぐるりと廻るだけで数十分を要した。

 土産物屋の前を歩いていた時、昔のことを思い出した。小学生の頃、輸入品は何でも高品質で高級品という時代だったが、友人が”Made in USA”の札がついた物産品を持っていたので、宇佐の地名をそのとき知った。

 翌日(12月1日)、阿蘇方面に向かった。宇佐市院内町の山村地域で石橋をいくつか渡った。石橋自体はそんなに珍しいものではないが、車から下りて見た橋(鳥居橋:写真)にはびっくりした。5連のアーチ橋の、その橋脚が細く長いからである。
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 宇佐市公式ウェブサイトの解説によると概要は以下のようである。
 大分県は全国で最も石橋が多い地域であるが、中でもこの院内町には75基もの石橋が残されており、うち、アーチ橋(めがね橋)は64基と日本一を誇っている。
 この地に石橋が多い理由は、1)院内町の地形は深い渓谷を形成しており、その流れも急であるため、頑丈で流されない石橋を必要としたこと、2)石橋に必要な石が豊富に採石できたこと、3)石垣等を組む技術を持った優れた石工が多かったこと、である。

 鳥居橋は、大正初期(1916年)建造で、今年100周年を迎えた。すらりと伸びた脚の美しさから「石橋の貴婦人」と呼ばれている(県指定有形文化財)。

阿蘇山の草原環境
投稿日:2016/12/22、No.311

 九重(くじゅう)連山を東に見ながら南下し、阿蘇市を通って阿蘇山塊を北側から徐々に登って行くと、森林限界を越えたわけではないのに、斜面は見慣れたスギ・ヒノキや落葉樹の森林ではなく、一面すべて草原であった。
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 この草原は牛馬の放牧のためであるが、これだけ広大な草地は日本では他にないだろう。写真(12月1日)は、放牧中の肥後あか牛(褐毛和種、あか毛和牛)と、一般的な黒毛和牛である。遠景は阿蘇市郊外の集落。

 阿蘇の草原は、平安時代から千年の間、人々がつくり、管理してきた草原である。毎年、4~12月:放牧(主にあか牛)、8~9月:輪地切り(野焼きの際の防火帯作り)、9~10月:採草(冬場の牛馬の餌、茅葺きの萱、肥料等のため)、3月:野焼き(ヤブ化を防ぐとともに、草の生産性を高めるため)を行っている(参考:「阿蘇の草原ハンドブック」ほか)。

 ところが、阿蘇の自然関連の印刷物やウェブサイトを調べていると、「草原の危機」「草原の環境が悪化している」「草原の再生を!」という標語が多く目についた。放牧とか採草の需要が減ったのなら、不要な草原に植林して森林を再生させれば良いのに、と思った。

 しかし、それは浅はかな考えであることが分かった。阿蘇の草原は、世界でも例の少ないネザサやススキ、トダシバが生育し、そこに希少種を含む多種の虫や鳥や動物が集まる、生物多様性豊かな環境である(同ハンドブック等による)。そういう草原環境を地域の人々が長い年月にわたり維持、保全してきたことは文化でもある。

 酪農家の高齢化、輸入肉の増加、草の価値低下などのため草原の保守・管理が行き届かなくなると、草原は藪化したり、表層の土砂が崩れることなどが阿蘇山の各地に起こっている。

草千里(阿蘇山)
投稿日:2016/12/25、No.312

 今回の九州旅行を考え始めた9-10月頃、阿蘇山の噴火警戒レベルは2(火口周辺規制)で、阿蘇中岳の火口近くまで行くロープウェーは運休中だった。しかし、レベル2が10か月続いていたので、このまま噴火が鎮まれば、噴火警戒レベルは1(活火山に留意)に引き下げられ、ロープウェーは運行するだろうと予想していた。そうなれば、それを利用して、噴火口周辺を軽くトレッキングしようと思っていた。

 ところが10月8日未明、中岳第1火口で36年ぶりの爆発的噴火が発生し、気象庁により噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられた。それにともない、阿蘇山の中腹を巡る道路のいくつかは通行止めになった。

 しかし、阿蘇山観光の重要スポットである草千里までは道路が開通しているので、行ってみることにした。草千里(標高1140 m)は、草原の中の眺望の良い場所のようである。
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 12月1日午後、下界は好天だったが、あいにく草千里より上の山は雲の中だった(写真)。草千里には広い駐車場と、レストラン、カフェや土産物店などがあるが、噴火の影響で客足が著しく落ちたためか、店の多くは閉鎖されていた。草千里の正面に水が涸れかかった池(草千里ヶ浜)があり、その向こうに烏帽子岳(1337 m)が、左奥には中岳の噴煙が見えるはずである。

 散歩程度のハイキングでもしたかったが、山や景色は見えないし、気温はおよそ8℃とかなり寒く、草千里にある阿蘇火山博物館のみを見学してから、来た道を阿蘇市まで戻り、山麓を半周して南阿蘇村へ着いた。

阿蘇山カルデラ
投稿日:2016/12/28、No.313

 南阿蘇村の山腹から北方向を見た阿蘇連山の写真を巻頭に示す。

 中岳が噴火中だが、12月1-3日は、噴煙は弱く、はっきりとは見えない。左奥に隠れている杵島岳(1270 m)を含めて阿蘇五岳と呼ばれている。阿蘇山というピークは存在せず、この山々(中央火口丘群)の総称である。

 この火山群をぐるりと取り囲むように外輪山の連なりがある(標高約700~1000 m)。現在の阿蘇山ができる前、約27万年前から9万年前の間に4回の大規模な噴火があり、地下の大量のマグマが火砕流となって地上に放出され、その堆積によって外輪山が形成された。一方、マグマ放出のため地下に大きな空間が生じ、その結果陥没が起きて、東西約17 km、南北約25 km(面積350平方km)の巨大なカルデラができた(阿蘇火山防災会議協議会を参考)。

 阿蘇カルデラは「世界最大級の大きさを誇る」(阿蘇火山博物館)とされているが、屈斜路湖を中心とする屈斜路カルデラは、東西約26 km、南北約20 km(気象庁「摩周」)なので、日本一は屈斜路に譲ることになりそうである。

 カルデラの凹地に水が溜まるとカルデラ湖となり、日本には支笏湖、洞爺湖、十和田湖など数多くある。

 阿蘇ではカルデラ形成後、中央付近で繰り返し噴火が起こり、阿蘇五岳などが誕生した。そのカルデラ内の、外輪山と中央火山群との間の環状の低地に約5万人が暮らしている。阿蘇市の主要部やJR豊肥本線阿蘇駅はこのカルデラ内にあり、またカルデラ南部は高森町と南阿蘇村となっている。

 なお、12月21日、噴火警戒レベルが2に引き下げられ、阿蘇山頂広場までの通行止めが解除された。しかし、噴石に警戒が必要とのことで、ロープウェーは引き続き運休している。

高森湧水トンネル 
投稿日:2016/12/31、No.314

 翌2日は、阿蘇山に雲がない穏やかな天気となった。もう一度草千里まで戻って高原を少し歩こうか、と一瞬頭に浮かんだが、それはあまりにも無駄が多いとすぐ思いとどまり、南阿蘇カルデラ内の高森町を散策することにした。

 高森町のウェブサイトに、「南阿蘇の奥座敷“高森”を巡る」ウォーキングとして10 km、徒歩2時間30分のコースの紹介があった。寺、神社、歌碑、自然公園、酒造などに立ち寄るもので、イラスト入りのマップが付いていた。

 廻る順序はこちらの気の向くままでよいのにと思ったが、山野に設けられたコントロール・ポイントを順番にたどるオリエンテーリングと見なせば、それも一興だ。

 ポイントの一つに高森湧水トンネル公園があった。入場料300円を払ってトンネルに入る。内部はまさにトンネルだった。鍾乳洞などの自然の洞穴なら左右、上下に曲がっているが、このトンネルは水平で一直線である。中央の水路に清水が流れている。

 高森トンネルは、旧国鉄高森線にて1973年から掘削工事に着手されたが、1975年入口から約2 kmの坑内で大量の出水があり、同時に町内の湧水が各所で枯れてしまった。その後も度重なる出水事故が発生したため、建設工事は中止となり、1994年入り口から550 m区間を親水公園として一般公開することになった(高森町観光協会)。

 七夕やクリスマスなどのイベントでは、町内の幼稚園、小学校、団体、企業などがトンネル内に飾り付けやイルミネーションなどを作るそうである。夏は涼しく、冬は暖かいトンネルだが、町民や旅行者たちの憩いの場として定着させるためには、さらなる工夫と努力が必要だろう。

 高森町散策は途中1、2箇所ショートカットして、昼前に終わらせた。午後からいよいよ、熊本地震(2016.4)の被災地へ向かう。

熊本地震の活断層 
投稿日:2017/01/04、No.316

 昨(2016)年4月14日夜および16日未明に、熊本地方を震央とするM 6.5とM 7.3の大きな地震が発生した。いずれも震央付近で、最大階級の震度7を観測した。

 当初、14日の地震が本震、その後の地震は余震と考えられていたが、16日に前より大きな地震が発生したので、前者は前震、後者が本震であったと気象庁は見解を発表した。前震は日奈久(ひなぐ)断層帯、本震は布田川(ふたがわ)断層帯の活動による、いずれも活断層に起因する地震であった。

 かつての地震により生じた断層をモニュメントとしては淡路島や鳥取市鹿野で見たことがあるが、形成直後の生々しい断層の色々な形態を是非じっくり観察したいと思っていた。

 カルデラ内の南阿蘇村から外輪山を越えて熊本市へ向かう道路のいくつかは、道路陥没や土砂崩壊のため通行止めになっていた。新聞やテレビで報道されているような典型的かつ大きな断層は、地元の詳しい人の案内で歩いて行かないと簡単にはたどり着けない。
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 写真は、南阿蘇村の西端、栃木原温泉付近の道路である(12月2日)。写真右のコンクリート側溝の高さ(約50 cm)だけ、道路の手前が陥没したか、奥側が隆起したため、歩道に大きな段差が生じていた(縦ずれ断層)。

 写真左の車道部分は仮修復されて、滑らかな段差となっているが、写真右の草地およびさらに右の空き地には、この段差と割れ目が伸びていた。

 地震発生から7か月半経過しているので、主要道路はかなり修復が進んでいるが、補修した部分の前後で、道路側線またはセンターラインが明らかに2-3 m程度左右にずれている個所(横ずれ断層)も見受けられた。

熊本地震の被災地 
投稿日:2017/01/07、No.317

 益城(ましき)町は、地下に布田川断層帯が走り、熊本地震の前震と本震と2回にわたって震度7を観測した唯一の地点である。その益城町と周辺村落へ、震災の実情を見に行った(3日)。

 益城町内の中心道路を車で通過すると、大半の店は平常通りのように開いているし、道路から見える一般住宅には、損壊とか、ブルーシート掛けの屋根は見当たらなかった。そのときは、益城の中心街はそれほど被害が甚大ではなかったのか、あるいは町の復旧・復興が速やかに進んだのかな、と思った。

 これを確かめるために、車を空き地に止め、町の裏通りや住宅街を2時間近く歩いて見て回った。修復が済んだ家屋もあるが、全壊、半壊、一部被害の家屋も多く見られた。写真は、手つかずのままの全壊家屋、その手前の更地は解体撤去が完了した敷地である。
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 なぜ、町の表と裏でこうも違うのだろうか。最も主要なポイントは、家屋の解体業者(人手)不足にあるようだ。

 被災家屋が、町の罹災証明調査により全壊または半壊と判定された場合、公費解体が受けられる。申請にしたがい町が解体業者と契約するが、その順番は、商店、飲食店、医院など町の機能の中枢がならぶ表通りが優先となるのだろう。

 全壊/半壊住宅では、貴重品や物品を持ち出せていないことが多いので、瓦礫の分別に通常より手間がかかり、木造1軒の解体・撤去に平均2週間かかるそうである。なお、自分で解体業者に依頼する自費解体でも、一定の条件下で費用が補助される。

 益城町では、(解体完了数)/(解体申請数)の進捗率は、12月末現在46%とのことであり、震災後2年以内にすべて完了を目指している。ということは、一番遅い人は2年待たなければならない。

 そして解体後、地盤調査をして新たに家を建てるか、別の策を選択するかを決断しなくてはならない。できることなら、活断層の真上には建築物を避けたいものである。

被害大きい熊本城 
投稿日:2017/01/10、No.318

 熊本市の中央・東・西区は4.16の本震で、震度階級が2番目に大きい6強を観測した。それにともない、全壊した家屋数は、益城町(人口3万2千人)で2,771棟に対し、熊本市(人口74万人)でも2,452棟とかなりの被害が発生した(熊本県資料)。

 一方、熊本市内で耐震構造が完備した大型ビルや公共建物では、一部損壊はあるものの、全壊や大規模半壊はなかったようである。

 地震による死亡者は、熊本全県で173人、うち益城町30人、熊本市62人である(県資料)。この数が多いのか少ないのか単純には言えないが、同じ震度7(体感観測)の阪神淡路大震災(1995.1.17)の全死者6,434人に比べると約40分の1である。

 その差を生じさせた要因は種々考えられる。例えば、揺れの強さ(速度、加速度等)、継続時間、建物の耐震性、建物・人口密度、時刻、救助体制、火災の有無、等々あり、これらの分析は非常に複雑になるだろう。

 ところで、熊本城では、報道によると、長塀が約100 mにわたって倒壊、東十八間櫓が石垣ごと崩落、5階建ての宇土櫓も一部損壊など、13の重要文化財の建築物に深刻な被害が発生した。
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 城内には立ち入ることができないので、市役所付近から遠望した熊本城の写真を示す。手前の建物は最近(2008年)復元建設された本丸御殿大広間で、その奥に天守閣(1960年外観復元)の屋根だけが見える。すべての瓦とシャチホコが落下したことが分かる。

 熊本城は、自然の地形を活かした広大な敷地に優美な石垣と多くの建築物が復元され、日本三名城の一つとも言われている。その修復には、単に修繕、補強すれば良いというものではないので、10年から20年位かかるらしい。

島原半島へ 
投稿日:2017/01/13、No.319

 1994年12月初め、北大2年の男子学生が、十勝岳-上ホロカメットク山にて雪崩により遭難死した。その学生の実家は熊本県にあり、また事故パーティーが所属する山系団体の顧問教官が私だった。それ以来、熊本のご両親とは古くからの知人のように親しく交流してきた。

 その学生の法事が、12月3-4日に実家でとり行われ、参列した。今回の九州旅行は、目的の一つがこの法事への出席であり、それに合わせるよう日程を組んできた。

 次は、島原半島へ向かう。熊本市から島原市まで陸路で行くと、160 km、約4時間かかる。一方、熊本市の北、長洲港から有明海を挟んで対岸の島原半島北部の多比良(たいら)港までフェリーが運航している。海上14 km、所要時間45分、乗客料金440円で、熊本と長崎を最短で結ぶ重要な産業・観光ルートとなっている。

 島原市には、17世紀前半に築城した島原城があり、1964年に天守閣が復元された。城の外郭の一帯に下級武士の屋敷街が造られていたが、その一部が「武家屋敷街」として保存され、観光客や地元民の散策路となっている。

 その屋敷街に近年復元された茅葺き屋根の3軒は、日中は完全公開になっており、玄関から自由に座敷内へ入ることができる。

 屋敷前の通りは、城下町の小路のように細く鉤型に曲がっているわけではなく、かなり幅広く直線的である。写真にて分かるように、路側ではなく、通りの中央に用水路があり、清水が流れている。

 この水路は、築城頃から明治維新まで、飲料水などの生活用水として湧水を流していたものである。現在も、街並み保存の一環として、清水を流しているそうである。水路があるため自動車は進入できず、徒歩または自転車のみの散歩道となっている。

雲仙・妙見岳歩き 
投稿日:2017/01/19、No.323

 島原半島は、日本でも有数の活火山雲仙岳がそびえ、昔から豊富な農作物と海産物を得て人々が生活を営み、その人と火山との関わりをテーマとして、2009年、他の2地域とともに日本初の世界ジオパークに認定された。さらにその65年前、雲仙地域が日本最初の国立公園の指定を受けている。

 雲仙岳は、普賢岳(1359 m)、国見岳(1347 m)、妙見岳(1333 m)の3峰の総称であり、さらにその周辺の1000 m級の5つの山を含め、「三峰五岳の雲仙岳」とも呼ばれる。

 ところが、1991-95年の雲仙噴火により、溶岩ドームの平成新山が誕生し、標高は1486 mとなったが、その後のドーム崩壊や沈降により現在 は1483 mで、島原半島あるいは長崎県の最高峰である。

 今回の九州の旅では、低い山でよいから1つくらい登りたいと思っていた。しかし、阿蘇山では入山規制のため叶わなかった。次の候補は妙見岳である。そこなら、高い所まで乗り物で行ける。

 12月5日、天気予報ではおおむね晴れだった。朝、島原半島南部の峠まで上がり、そこから山道をしばらく進むと、雲仙ロープウェイ仁田峠駅(標高1090 m)に着いた。

 峠から下界は晴れているのだが、ここから上部の山は雲に被われている。ロープウェイに乗って妙見岳駅(1280 m)に着く。濃い霧の中である。

 天気予報と観天望気から、数十分もすれば日射で暖まって霧が晴れる、と予想し、妙見岳駅の展望台で暫し待機することにした。寒いので、時々付近を歩き回る。
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 しかし45分経っても何も変わらず、妙見岳へ向けて出発した。トレールを15分も歩くと(写真)、妙見神社があった(1315 m)。ここからは国見岳へ行く縦走路はあるが、神社の先にあるはずの頂上への道はなく、進入禁止の立て札があった。

 霧のため雲仙3峰や新山は何も見えないが、神社を頂上とみなして、すぐ下山した。高度差35 mを上がっただけなので軽登山とも言えないが、帰りは峠駅まで歩いて下ったので、「軽い山歩き」なら良かろうと思う。

雲仙岳の火砕流と土石流 
投稿日:2017/01/29、No.328

 雲仙普賢岳は1990年11月、198年ぶりに噴火し、火山灰の影響で道路・鉄道などのライフラインが寸断された。

 翌1991年 6月3日、火山ガスと高熱火山灰の混合体が山の斜面を流れ下る大規模な火砕流が発生し、警戒に当たっていた地元消防団員、報道関係者、農作業中の住民等が被災し、死者40名、行方不明者3名におよんだ。

 すでにこの10日前から火砕流は発生していたので、一般住民は避難していたため、死者は警戒区域内で活動していた人たちに限られた。なお、遭難した報道関係者の中に、私たちのパタゴニア氷河調査を1983年現地取材したテレビカメラマンが含まれていることを、数年後に知った。迫力ある映像を撮ろうと、各社が競って危険区域内に入ったらしい。

 雲仙の山麓は、火山噴出物や火山灰、土砂や木々が堆積している状態になった。1992年8月8-14日、台風の影響で大量の雨が降り、堆積物が水とともに流れる土石流(ラハール <火山泥流>)が発生し、流路の家屋はことごとく破壊、流されたが、住民避難がすでに行われていたので、人的被害は0であった。

 島原半島南東部の深江町にて、土石流の被災家屋11棟が当時の状況のまま、その場所で保存され、屋内に3棟と屋外に8棟が展示されている。写真は、大型ガラス温室風パビリオン内の被災家屋である(道の駅みずなし本陣ふかえ隣り:12月4日)。
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 この付近は、土石流の先端部で、流れが減速、停止する地域だったため、土砂が家屋の1階にいっぱい詰め込まれているが、2階部分は破壊せず、何ごともなかったかのようにも見える。

 この雲仙の火砕流と土石流は、その後の火山災害の防止と対策を考える上で、様々な面で多くの教訓を残すことになった。(「雲仙・普賢岳の噴火災害」など参考)。

世界遺産「軍艦島 
投稿日:2017/02/02、No.329

 「軍艦島」という名前は、世界遺産との関連で新聞等にて見聞きしたことがあったが、その場所は九州の北西部あたり、と漠然と思うだけで、その「島」の経緯や意義についてはほとんど知らなかった。

 12月5日昼前、島原半島を離れ長崎市に入るころ、「軍艦島」の案内を目にした。急に興味が湧き、予約がなくても行けるのかどうか分からなかったが、とりあえず大浦海岸通り近くの常盤桟橋へ向かった。

 長崎港の南西約19 kmの沖合に浮かぶ南北480 m、東西160 mの端島(はしま)は、その外観(写真)が軍艦に似ているため、ニックネームとして「軍艦島」と呼ばれてきた。

 端島は、今は無人島だが、かつては炭鉱として栄え、2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」という名で登録された世界文化遺産(九州5県、山口、静岡、岩手県に点在)の構成要素の一つである。したがって、観光パンフレットに紹介されているような「軍艦島」という名の世界遺産はない。

 軍艦島を見学するためには、専用の観光船に乗るほかはない。つまり、団体ツアーのみである。幸い、5日午後のツアーの一部にキャンセルがあったので、参加することができた。

 まずは、軍艦島をぐるりと周航して外形を眺め(写真:別会社の観光船が島に停泊しているのが見える)、その後、ガイドに先導されて上陸する。
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海底炭鉱の町、端島 
投稿日:2017/02/06、No.330

 長崎沖の端島では、1890(明治23)年、三菱の経営となり、海底炭鉱として本格的な操業が開始された。採掘作業は、海面下1,000 m超におよび、出炭量は第2次大戦中の1941年に年間41万トンに達した。

 炭鉱の発展とともに端島の住民(「ヤマの男」達とその家族)は増え続け、最盛期(1958年頃)には5,200人を超え、現在の東京都の人口密度の約10倍になった。

 端島には、坑出入口や貯炭場、会社の諸設備以外に、鉄筋高層集合住宅、マーケット、病院、共同浴場、小・中学校、グラウンド、プール、パチンコ店、理髪店、郵便局などが設置された。電気は海底ケーブルにより送られ、真水は海水の蒸留、後に船で運搬および海底送水管により供給された。(以上、「あっ!と ながさき」リーフレットを参考)

 このように、1974年端島炭鉱の閉山まで、端島はまさに生活に必要なものは何でもそろい、狭いながら賑わいのある密集した集落あるいは町であった。

 観光ツアーは、島の桟橋から上陸し、制限時間40分の中で、ほんの250 mほど観察路を歩き、ガイドから詳しく説明を聞いた。写真のレンガ造りの建物は、鉱山の中枢の総合事務所である。
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 この島全体が、「明治日本の産業革命遺産」の構成要素というわけではない。端島には、大正期、昭和期に建設された施設も多いので、「明治期」の建物のみが世界遺産の要素として登録されている。

 世界文化遺産とは言え、どの建物も全壊または半壊で、戦禍または大震災の後放置された廃墟のようである(写真)。強風、雨、高潮にさらされ、崩壊は進む一方である。

 「これらの建物について、保存が考えられているのか?」とガイドに質問したら、さまざまな場で検討は行われているそうである。一部の建物を補強して復元するか、ありのままを見せてゆくか、難しい判断だと思われる。

明治日本の産業革命遺産
投稿日:2017/02/10、No.331

 日本の世界文化遺産は現在16件あるが、初期の頃(1993-99年)に登録された、法隆寺、姫路城、古都京都、白川郷、原爆ドーム、厳島神社、古都奈良、日光社寺は、ある地域または建物群が指定されているので、「遺産」が明確で受け入れやすい。

 それに比べ、「明治日本の産業革命遺産」は、製鉄、造船、石炭の三産業を主に、北は釜石の鉄鉱山から南は鹿児島の旧集成館にいたる、幕末~明治末期の23個の資産で構成されている。この中には、やや異質と感ぜられる萩の松下村塾も含まれている。

 また、観光船から遠望できる三菱長崎造船所のジャイアント・クレーンも23個の一つである。1909年にイギリスより輸入された日本初の電動クレーンで、現在も稼働している。

 長崎の造船の歴史を語るとき、この巨大クレーンの存在は欠かせないのかもしれないが、世界遺産=「人びとが過去から引継ぎ、未来へと伝えていかなければならない人類共通の遺産」(日本ユネスコ協会)と言えるものかどうか疑問に思う。

 また、本決定の最終盤には、韓国から「強制労働」のため反対もあり、純粋に文化とか自然の価値を考えるのではなく、政治色が強くなったことは今後の世界遺産選定に禍根を残したと言えよう。

長崎のまち 
投稿日:2017/02/24、No.337

 長崎のまちの観光テーマは、長崎市公式観光サイトによると「大浦天主堂と教会群」「長崎の星 龍馬とグラバー」「明治日本の産業革命遺産」の3つが、夜景、食べものに並んで推奨されている。

 長崎市には20年前、自然災害学会のシンポジウムで来たことがあり、その折、半日ほど著名なスポットをさーっと見て回った。したがって今回の九州の旅では、12月5日午後と6日午前を長崎観光に予定し、重点的にいくつかを見ようと思っていた。

 しかし、計画になかった軍艦島クルージングに参加したので、その他の地点は駆け足で巡ることになった。

 まず、観光のお薦めメニューには入っていないが、修学旅行や外国人が多く訪れる長崎原爆資料館へ。1996年に開館しているが、前回はここを見学していない。広島の平和記念資料館に比べると規模は一回り小さいが、展示物の迫真性や訴える内容の重さなど、両館とも大変優れており、どちらがレベルが高いとかは言えない。

 長崎市街は地形の起伏が大きく、したがって坂が多い。オランダ坂は有名だが、「ながさき坂道めぐり」によると、名前のついた坂は21個ある。そのうちの一つが写真に示す祈念坂である。地区住民とおぼしき老夫婦がゆっくり歩いて登ってくる。
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 坂の多い都市は全国にたくさんあるが、ここは古い洋館に囲まれた細い石畳のスロープに、ところどころ段差があり、とても趣がある急な坂である。

平尾台の千仏鍾乳洞 
投稿日:2017/03/06、No.339

 長崎市内の2、3地点と、大村市の武家屋敷街を駆け足で散歩した後、12月6日昼前、長崎を発って一路北九州市に向かった。同日夕までに、門司へ着くことにしている。

 九州旅行の最終章にて、もし時間があれば立ち寄りたいと思っていた所が、カルスト高原平尾台である。平尾台は、北九州市小倉の南端の標高400~600 mに広がる高原である。石灰岩の露出が秋吉台と較べて著しいそうで、1952年に国の天然記念物に指定されている。

 平尾台の中には鍾乳洞がいくつかあるが、そのうちの一つ、千仏鍾乳洞を訪れた。この鍾乳洞の特徴的な点は、入口付近から洞内部にかけて、石灰岩のツララ(鍾乳石)が非常に多いことである。

 さらに他の鍾乳洞にはあまりないことだが、洞内480 m地点から奥は、小川というか水溜りの中を歩く。そのために、洞の受付では貸し草履が用意されている。

 6日18:30、往路とは別会社のフェリーにて新門司港を発ち、翌07:00神戸港着、昼過ぎ鳥取へ帰着し、9日間の旅を終えた。


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