南極冒険、南極OB会、ふじ、氷海ビセット、宗谷

冒険家、徒歩で南極点到達
                                     投稿日:2018/01/11、No.418
 南極大陸の海岸から南極点まで1130 kmの単独無補給歩行に挑んでいた冒険家の荻田泰永氏が、1月5日、南極点に到達したとのニュースが報じられた。出発から丁度50日目である。

 実は、この計画を知ったとき、無理だろう、途中で撤退せざるを得ないだろう、と思っていた。その理由は、必要最小限の装備、食料、燃料でもかなりの重量になるはずで、それを標高2800 mまでの雪原を人力のみで引っ張って歩くことは、想像を超える難行と思ったからである。

 一般に、探検や登山、調査旅行の場合、前もって然るべき場所へ食料や燃料を運び、備蓄(デポ)することがある。しかし、今回の南極点歩行は、デポも支援もない「無補給」に特色がある。

 この徒歩旅行の意義や評価は別にゆずり、ここでは携行した物資の重量とその中身を検討してみる。

 報道によると、「食料や燃料、テントなどを積んだ 重さ約100キロのそりを引き」とある。しかし、その100 kgの内訳は分からない。

 一方、荻田氏のブログ(2012年12月)に、北極点単独歩行(50日予定)のソリ荷について「重量が約100 kgくらい。内訳は、半分くらいが食料(一日1 kgで50日分50 kg)、30 kgがソリやテントや寝袋やその他諸々の装備類。あとはコンロの燃料です」と記述されている。

 南極点歩行の場合も、概ねこれに準ずると思われる。大きな問題は、燃料である。北極の例では、燃料20 kgということになる。

 極地では、水は雪か氷を融かして造る以外にないので、真水が得られる通常のキャンプの2倍以上の燃料が必要になる。

 登山用の携帯型コンロには、燃料がガソリン、灯油、ガス、アルコールと多種類あり、南極歩行では何を使用したのかは不明であるが、いずれにしろ飲用と炊事用の最低限に加え、その他の暖房、ロス、予備など、必要燃料の見積もりは単純ではなく、多くの経験が必要である。
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[写真]南極白瀬氷河の源流雪原を行く雪上車(1973年1月).


第10次南極観測隊50周年OB会
投稿日:2018/05/20、No.448

 ほぼ毎年恒例となっている第10次南極観測隊(1968-70年)のOB会が、5月15-16日、名古屋城が見えるホテルにて開催され、元観測隊員21名、同夫人12名、隊の友人2名、計35名が出席した。

 同隊の越冬隊員は29名(日本出発時の平均年齢31歳)であったが、その後物故者が6名で、健在者のうち19名(平均年齢78歳)が参加というかなり出席率の高い高齢者の集会であった。また、毎年夫人同伴数が多く、第1次~58次隊(今春帰国)のOB会では他に例を見ないことである。

 今年の会合は「晴海発ち50周年記念」と銘打った。南極観測船「ふじ」が東京港晴海埠頭を出港したのが1968年11月30日だったので、今年の秋に満50年となる。
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 写真は、その出港時の光景である(撮影者不詳。「第10次南極越冬隊の記録」より)。観測隊員全員と船の一部幹部が甲板に並び、紙テープを投げ、見送りの家族、知人、一般人とテープで結ばれ、船の離岸とともに少しずつテープが切れる。最近は、観測隊員はオーストラリアまで航空機で行くので、このような余韻が残る「見送り」はない。


南極観測船ふじ 
投稿日:2018/05/27、No.449

 名古屋港ガーデンふ頭に「南極観測船ふじ」という名の南極博物館がある。この船は、日本南極観測の2代目観測船であり、1965年11月(第7次隊)から1983年4月(24次隊)まで、18年にわたって南極で活躍した。

 海上自衛隊の砕氷艦だった「ふじ」は、退役後、希望する自治体等に払い下げることになり、1985年8月から、名古屋港に永久係留され、博物館として再出発した。

 第10次南極観測隊のOB会が名古屋で開催された理由には、50年ぶりに「ふじ」に乗船しよう、ということもあった(写真:5月16日)。
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 ふじ船内は、地下1階(機械室など)から地上3階のブリッジ(操舵室)まで、定められた順路に沿って見学する。その中で、厨房、医務室、理髪室、隊員居室にはマネキン人形が置かれ、当時の状況を再現している。

 船内の階段は、元々はハシゴに近い狭くて急勾配のものだったが、博物館に変わってからは、ふつうの公共施設の階段の様に改修されていた。

 2階の旧ヘリコプター格納庫は、南極の博物館になり、南極観測の歴史、概要や成果、および各種物品や模型が展示されている。

 今回(16日)ふじへ入館したとき、「あなたは ふじに8291048 番に乗船されたことを証明いたします」と書かれたチケットが渡された。ふじが博物館としてオープンした1985年8月以来、来場者に順番に漏れなくこの券を配っていたとすると、33年弱で829万人目なので、入館者は平均年間25万人ということになる。

 国立新美術館、金沢21世紀美術館、国立科学博物館は、年間入館者が200万人を超える大型で大入りの館だが(総合ランキング.net)、鳥取県立博物館は特別展を含んでも年間5万人程度である。この数字を見ると、「南極観測船ふじ」は博物館としてかなり成功していると言える。大都市かつ人気の水族館が付近にあることなど、立地の条件が良かったためであろう。


「ふじ」氷海にビセット(1970年2-3月)
投稿日:2018/06/02、No.450

 第10次南極観測隊が1年間の越冬を終え、観測船「ふじ」にて南極を離岸した後、厚い海氷の密氷群に閉じ込められ(ビセット)、自力脱出が困難な状況が続き、日本への帰国が大幅に遅れた。

 この間、ソ連の「オビ」が救援に来たが、硬い氷に阻まれ接近できず、救出断念。「ふじ」もスクリューを氷にぶつけ、一部破損した。

 国内では、この事故がかなり大きく報道された。我々隊員は、その船に乗っていたのだが、緊迫感や危機感はほとんど感じることがなかった。

 その理由は、船の運航は船側が決めること、観測隊員は完全なお客さんであること、周囲が氷であるとは言え何も助言できないこと、いずれ何とかなるだろうと楽観していたこと、にある。つまり、旅行中に交通機関の故障トラブルに遭ったようなものだった。

 船内で、過去1年分の週刊誌などを読み耽ったり、越冬中のデータを整理したり、ゲームに興じたり、夜は酒を飲んで毎日過ごしていたように思う。だから、この間の毎日の様子については日誌や記録ノートには何も記述がないし、写真も撮っていない。

 南極観測史上、めったに起こらない出来事だったが、記録資料も強い想い出もなかったので、今まで講演でふれたことも、何かに書いて発表したこともなかった。そこで、当時の文部省発表の資料等から事実経過(1970年)を振り返ってみる。

 2月19日:昭和基地沖を出発、帰国の途に.
 2月25日:スクリュー破損.氷海に立ち往生.
 3月7日:日本政府の依頼により「オビ」が来るも、接近断念.
  その後、米の「エディスト」と「グレーシャー」へ救援依頼.
  日本では、「ふじ」の氷海越冬も検討始める.
 3月19日:米救援船の到着前に、風が吹いて氷状好転し、自力で外洋に脱出.
 4月8日:越冬隊員は、ケープタウンからパリを経由して空路帰国(18日遅れ)
 5月8日:「ふじ」片肺航行で東京へ帰港.
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[写真(2018.5.16)]:「ふじ」の操舵室。航行中は、艦長/副艦長、航海士、操舵士、監視員、通信員など10名強が配置につく。


初代南極観測船「宗谷」
投稿日:2018/08/27、No.475

 新橋から豊洲へ至る、モノレールらしいがそうではない電車「ゆりかもめ」の沿線、お台場の岸壁に初代南極観測船「宗谷」が整備保存の上、一般公開されている(写真)。
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 南極観測船「宗谷」は、海と船の文化をテーマとした「船の科学館」(日本財団運営、現在休館中)に隣接し、別館展示場の位置づけである。船は、停泊ではなく、海水に浸ってはいるが岸壁に完全に固定されている。

 「宗谷」は、1938年に貨物船として竣工後、第2次世界大戦では海軍の特務艦、戦後は引き揚げ船として活躍し、1950年からは海上保安庁所属となり、各地の灯台の補給船の任にあたった。

 その後、船は改造され、1956年の第1次南極観測隊から第6次隊(1961-62年)まで南極を6回往復した。

 南極から引退後、1978年まで海上保安庁巡視船として北の海にて活躍した。その頃、私は北海道のどこかで「宗谷」を見たような気がする。

 今回(8月16日、写真)「宗谷」の内部を見学して、船が意外に大きいことに驚いた。調べてみたら、「宗谷」の全長は84 m、2代目南極観測船「ふじ」(第7次~24次隊:現在、名古屋港にて公開)は100 mで、大きくは違わない。

 しかし、満載排水量は「宗谷」4850トン、「ふじ」9100トン、初代「しらせ」(第25次~50次隊)19000トンであり、様々な能力がおおよそ倍、倍に増えてきたのである。


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