中米の旅 (1)-(16):メキシコ・ベリーズ・キューバ紀行

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 [Photo: ベリーズ・シティ沖合いの珊瑚礁の島(アンバーグリース・キー)]
 今回の旅(2019年2月5日~16日)の行き先は、中部アメリカ(Middle America:中米)とカリブの一部地域である。

『(1) ユカタン半島』
  5年前の2014年1~2月、パナマ、コスタリカ、メキシコの3か国を訪れた。パナマではパナマ運河を体験航行すること、コスタリカでは国立自然公園で野生鳥獣を見ることを第一目的とし、メキシコでは首都メキシコシティ周辺の一般的観光だった。

 一般に、中央アメリカ(Central America)は、北アメリカ大陸の南部が細くなった地帯のグアテマラから南アメリカ大陸北端のパナマまでの7か国の総称で、メキシコは北アメリカに含まれる。

 また、中部アメリカというときは、メキシコからパナマまでの8か国の地域を指す。いずれも略称は中米となる。

 5日成田空港を発ってノンストップでメキシコシティ着。この大都会(写真)は、このたびは素通りとし、国内線に乗り継ぎ、メキシコ東端ユカタン半島のメリダに向かった。
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 写真(下)は、ユカタン半島内陸の村。
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『(2) メリダ』

 メキシコ南部から北東に延びるユカタン半島の北西内陸にメリダ市がある。人口89万人(2015年)で、ユカタン州の州都である。

 メリダおよび周辺地域は、16世紀にスペイン軍に制圧されるまでは、マヤ民族が多く住み、現在も諸施設などで、マヤの文化やアートがいろいろ見られる。州庁舎内部の廊下や階段、広間にはマヤの絵画が壁画として20数点描かれていた(写真)。
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 また、メリダの中心市街には、スペインの植民地時代の面影が多く残されている。写真は、ユカタン半島最大のカテドラル(大聖堂、16-18世紀建築)である。
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 メリダの町は、道路がかなり規則正しい碁盤の目になっており、南北通りは偶数、東西は奇数番号となっているので、歩いて目的地に向かうときは大変分かりやすい。

 しかし、近年人口増加が著しく、市内の全ての道路は等しく交通量が多く、静かな古都をのんびり散策、というわけにはいかない。 


『(3) マヤ遺跡』

 メリダから内陸へ120 km、かつての密林の中にマヤ(Maya)文明最大規模のチチェン・イッツァ(Chichen Itza)遺跡がある。世界遺産に登録されており、訪れる観光客は多い。

 旅行会社等が、メリダからいろいろな日帰りツアーを催している。これに参加するのが便利だが、たいていは08:00-18:00や09:00-19:00など、1日を一杯使い、遺跡の各所でガイドが歴史、伝説、逸話などを紹介するのだろうけど、英語かスペイン語でそれらを聞いても大半は理解できないし、分かったことがあったとしても頭に残らない。

 見たいところだけを見る、という方針で、メリダからチチェン行の路線バスを利用することにした(2月6日)。沿線の町村毎に立ち寄る各駅停車なので、片道2時間半以上かかったが、地元の人々の振る舞いや暮らしぶりの一端を見ることができて有意義だった。
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 写真は、チチェン・イッツァ遺跡の中心的な神殿エル・カスティージョ(9世紀初頭完成)である。高さ25 mの四角錘で、四面全てに階段がついている。
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 この他、1時間余り、主要な石像や建造物を駆け足で見て回った。

 中米の先住民の文明は、地域や時代や質がとても複雑な上に、はっきり解明されていないこともあるため、なかなか理解が難しい。

 主なものをごく簡単にまとめると、テオティワカン(AD.150年~650年頃)とアステカ(1428年頃~1521年)は、現在のメキシコシティおよび周辺にて栄えた都市または国家、古典期マヤ(AD.300年~900年頃)はユカタン半島およびその南部にて天文・暦法・象形文字などを発達させた文明である(『ラテンアメリカ文明の興亡』を参考)。


『(4) 半島南部の小国』

 メリダに3泊した後、ユカタン半島東部のカンクンまでバスで移動した(8日)。今度は急行で、全行程320 kmのうち停車1箇所、4時間半でカンクン市街に到着した。

 ターミナルでバスを乗り換え、カンクン国際空港へ着いた。向かう先は、ユカタン半島付け根の東海岸、カリブ海に面する小さな国ベリーズ(Belize)である。

 空港にて搭乗手続きを済ませると、「予約されたお客様が皆そろったので、間もなく出発します」と係員が言った。すぐ搭乗口に行くと、乗客は地元民と思われる男性1人と私たち2名のみだった。
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 航空機は(ベリーズ)トロピック・エア社の単発のプロペラ機(写真)で、客席は12席、乗員はパイロットとコパイロットの2人、もちろんフライト・アテンダントはいない。国際線で、このような小型プロペラ機に乗ったのは初めてである。

 定刻より1時間早い18:45出発、430 kmを1時間20分の飛行で、ベリーズ国際空港へ着いた。小さいけれど、新しい、きれいな設備の空港である。

 簡単な入国手続き後、外に出ると、もちろんバスはない、タクシーは1台も止まっていない。しばし待つが、全く来ない。これを見た空港スタッフが、電話でタクシーを呼んでくれた。

 彼が言うには、ここはベリーズ唯一の国際空港で、マイアミ、ダラス、シカゴなどアメリカの数都市と毎日定期便が運行しているが、今日の曜日のこの便を除くと、普通は17時に全ての発着が終わり、18時前後から空港職員は自分の車で家に帰る、客がいないからタクシーは待っても来ない、とのことであった。


『(5) 米で最も新しい国ベリーズ』

 今回の旅行を計画する前は、ベリーズという国の存在を全く知らなかった。しかし、ベリーズは長くイギリスの植民地で、1981年に独立した南中北アメリカで一番新しい国、したがって公用語は英語であることを知り、中南米では特異な存在なので大変興味を抱いた。

 外務省の「海外安全情報」でもレベル1(十分注意)に達していないので、治安はそんなに悪くはなさそうであった。

 ベリーズの国土の面積は四国より一寸大きい程度(1.2倍)、人口は37万5千人(2017年)で、中米で最も少ない。

 同国の前首都であるベリーズ・シティでは、観光関係やサービス業の人は当然ながら皆英語を話す。しかし、地元民が多く集まるスーパーマーケットに行ってみると、圧倒的にスペイン語が多く聞こえる。

 ベリーズの民族は、ベリーズ政府観光局資料によると、メスティーゾ族(ヨーロッパ系とマヤの混血):40%以上、アフリカ系と欧州系の混血:40%、カリビアン:6%、マヤ族:9%、その他レバノン系、スペイン系、英国系、中国系、インド系、アーミシュ、となっている。

 確かに街を歩いていると、見かける人の顔、髪、服装は多様であり、典型的な多民族国家である。写真は、同市の繁華街の裏通りにて、何らかのイベントで集まった地元民たちである(9日)。
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 なお、ベリーズに到着する前日(7日夜)、同市在住の日本人家族が自宅で2人組の強盗に襲われ、息子の大学生1人が殺害された、というニュースを後で知った。これはどこでも起こり得る事件で、近年ベリーズの治安が急激に悪化してきたということではなさそうだが、ホテルの支配人から、市街の一部地域付近は薄暗くなったら歩かないでタクシーを利用した方が良い、と忠告された。


『(6) 珊瑚バリアリーフ』

 カリブ海に面したベリーズの海岸線はマングローブが密生した湿地帯で、その沖合には海岸に平行に珊瑚礁が発達している。
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 ベリーズ~カンクンの飛行機から見下ろした海岸付近の写真を示す(9日)。左下の緑地はマングローブ林、その沖合の薄青色またはエメラルドグリーンの地帯が珊瑚礁で、水深がごく浅い海域である。

 その沖(右)の濃い青色は深い海域である。珊瑚礁の縁の部分で、波が崩れ、白波が2、3列認められる。

 この珊瑚の地帯が、ベリーズのバリアリーフ(barrier障壁、reef岩礁)である。オーストラリア東岸のグレートバリアリーフに次ぐ世界第2位の規模の珊瑚礁、と観光サイトでは紹介されている。

 四季を問わず、このバリアリーフおよび周辺にて、スキューバダイビング、シュノーケリング、釣り、ヨット、カヤック、カヌー、パラセーリングなど、各種マリーンスポーツを楽しむため、諸外国から多くの旅行客が訪れている。

 バリアリーフの外縁では、深いところの珊瑚や魚が見られるので、ダイビングの格好スポットとなっている。


『(7) 珊瑚礁の島キー』

 ベリーズのバリアリーフ地域内に、珊瑚の島が大小たくさん(約450個ほど)点在している。この島のことを、キー(caye、英: cay, key)と呼ぶ。

 バリアリーフとは、キーとはどんなものか見てみたいと、ベリーズの埠頭からサン・ペドロ行のフェリーボートに乗った(9日)。乗客定員40人くらいの高速フェリーである。客の2/3ほどは欧米などからの旅行客、1/3ほどは何らかの仕事のためと思われる現地国民だった。
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 キー・カーカに立ち寄り、片道1時間30分ほどで、ベリーズ沖合の最大の島アンバーグリス・キー(Ambergris Caye)のサン・ペドロという町に着いた(写真)。同島は、南北40 km、東西1.6 kmの大きな島で、かつてはマヤ民族が多く居住していた。
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 珊瑚と砂でできた薄く平坦なこの島には、現在は数多くのホテル、保養所、レストラン、観光オフィス、その他の施設などがある、中規模なリゾート町の様相だった。飛行場もあり、国内定期便の軽飛行機が毎時の様に発着している。

 2時間程度滞在しようと思っていたのだが、船便の都合で、数十分だけ駆け足でこのリゾート地を見物して、帰路の船に乗った。


『(8) リゾート地、カンクン』

 10日昼前、ベリーズからプロペラ機でユカタン半島東端のカンクンに向かった。今度は、リトアニアのグループ6人と一緒で、乗客は11人、ほぼ満席だった。

 カンクンの中心市街はメキシコのふつうの地方都市の様相だが、そこから4 km~20 kmの間は細長い砂洲となっており、西側は湖(Laguna)、東側はカリブ海である。

 この地は、四季を通して気候が温暖の上、カリブ海岸は白砂のビーチが続くこと、周辺で各種マリーンスポーツを楽しむことができるため、世界的なリゾート地となっている。カンクン(北緯21度)の2月は冬だが、温和な乾季なので、旅行の好適シーズンに含まれる。

 この長さ15 kmの砂洲区間はホテルゾーンと呼ばれ、大型の高級リゾートホテルが並んでいる。カンクンの”Luxury Hotels”という予約サイトを見たら、5つ星ホテル49、4つ星55、3つ星43、計147軒のホテルが掲載されていた。
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 写真は、ホテルゾーン内の海水浴場である。ここは誰でも自由に立ち入れる公衆浜辺なので、メキシコ人や中米人と思われる人々が多い。写真の遠景に見える高層建物がリゾートホテルであり、そこにはプール、各種施設が整っている。

 夕方、砂洲に沿って5 kmほどウォーキングをした後、ホテルゾーン内の繁華街を散策した。旅行客などで賑わってはいるのだが、タクシー、観光(ツアー)業、飲食店などの客引きの声もはなはだ多い。
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 ホテルやレストラン、娯楽施設などに加え、観光に携わる人が非常に増え、このリゾート地は適正規模(需要)を超えて膨張してしまったのではないかという感じがした。データに基づかない印象なので、的を射ているかどうかは分からないが。


『(9) キューバ』

 今回の旅の3番目、最後の訪問国はキューバである。
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 キューバは、メキシコ・ユカタン半島とアメリカ・フロリダ半島の間で、東西に伸びるカリブ海最大の島国である(地図)。国の面積は、日本の本州の半分程度である。

 ベリーズ、カンクン、およびキューバの南岸はカリブ海に面しているが、キューバの首都ハバナは北岸で、メキシコ湾の東端に位置する。なお、ハバナは、キューバ公用語のスペイン語ではLa Habana(ラ・アバーナ)、英語ではHavanaと記し(地図)、“バ”がbとvで異なる。

 短期の観光目的であってもキューバへ入国するには、ツーリストカードという簡易的な査証(ビザ)が必要である。出発地の空港(今回の場合はカンクン)でも同カード取得可、と記されていたが、混雑とかトラブルがあったら困るので、事前に東京のキューバ共和国大使館へ郵便により申請し、カードを交付された。

 2月11日昼過ぎ、カンクン空港を発ち、実質1時間でハバナ空港に到着した。

    
『(10) ハバナ旧市街』

 16世紀初頭から1902年のキューバ共和国成立までの400年間、キューバはスペインの植民地であった。その当時の町並みの面影を残している地区がハバナ旧市街(La Habana Vieja)である。

 旧市街の中央部を東西に約1 km伸びるオビスポ通りは、歩行者専用道となっており、石畳の道路の両側には、オフィス、ショップ、レストラン、カフェなどがならび、常に外国人旅行者で賑わっている。
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 写真(12日)はビエハ広場近くの歩行者専用道である。レストランなどの一部では、オープンカフェが歩行者道の半分以上を占めている。時にはそこで、音楽の生演奏が行われることもあるので、散歩をしていても楽しい。
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 ハバナは北緯23度、北回帰線に位置するので、5月~9月は真夏で、日最高気温の平均は30℃を超える。2月は、日最低~日最高が17℃~27℃で、鳥取の6月、札幌の7-8月くらいに相当し、爽やかな夏でオープンカフェは気持ちが良さそうである。


『(11) ハバナ新市街』

 20世紀前半のキューバは、事実上アメリカの軍政下であり、1920年代の世界恐慌により著しい不況となった。1959年、カストロとゲバラらによる革命成功、社会主義体制をとり、ソ連と外交関係を結ぶ。一方、アメリカは経済封鎖を行う。

 ソ連崩壊(1991年)後、キューバ経済は深刻な危機に陥ったが、カストロ政権の積極的政策により壊滅の危機を脱出。その後「キューバ危機」を経て、2015年オバマ米大統領の間で54年ぶりに国交が回復。現在の主要産業は、観光業、農業(砂糖・タバコ)、鉱業(ニッケル)等である(以上、DTACキューバ観光情報局)。

 以上の様に、キューバの政治、経済はめまぐるしい変化を遂げ、その結果、様々な面で、キューバ独特の様相が目に触れる。
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 写真は、ハバナ市の中心部付近、新市街の高層建物エリアを示す。路上のピンク、薄青、黄色の車は、1950年代のアメリカ製クラシックカーで、観光タクシーとして数多く走っている。ただし、当然ながら、エンジンや主要駆動部は新品と交換している。

 新市街の主要道路はよく整備され、きれいである。一方、輸入車の関税が非常に高いため、自家用車が少なく、広い道路を車がゆったり走っている。
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『(12) カバーニャ要塞』

 旧市街から運河を隔てた対岸がカサブランカ地区で、その中にモロ要塞とカバーニャ要塞があり、旅行客の観光スポットというばかりではなく、地元民の行楽地になっている。

 この歴史的に重要な軍事施設を見に行こうとしたのだが、運河には橋がないし、渡し舟も見当たらない。唯一の通路は、長さ733 mの海底トンネルである。自動車用のトンネル内を歩いて渡るわけにはいかないので、旅行者の選択肢は、バスかタクシーに限られる。

 路線バスの事情は良く分からないので、タクシー利用とした。

 今回旅行した3か国ともタクシーにはメーターがない。ガイド本によると、乗車の前に行き先を告げて値段の交渉をするべき、とある。運転手に料金を尋ねることは簡単だが、その値段が妥当かどうか、標準の価格を知らなければ全く意味がない。値切って安く挙げたいわけではないが、運転手の言い値に従うと、相場や基準を崩してしまうことになり、良くない。
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 写真はカバーニャ要塞の入口付近であり、旅行者と地元民で賑わっていた。

 そこから20分ほど歩いた閑静の地に、チェ・ゲバラ(Che Guevara、1928-1967)が一時居住していた邸宅が、資料館として開放されていた(写真下:建物にCheと表示されている)。医者であり、革命家であったゲバラは、キューバのカリスマ的英雄として、ハバナのあちこちの博物館や諸施設で展示、紹介されている。
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『(13) 2種類の自国通貨』

 ベリーズでは、通貨はベリーズドル(BZ$)だが、US$1= BZ$2 の固定レートになっているので、日常の買い物や支払いに米ドル(US$)が支障なく通用した。

 このように、米ドルとかユーロも使えるという国はあるが、キューバは自国の通貨が2種類ある、という他では例を見ない貨幣事情である。

 キューバの通貨には、一般に流通する人民ペソ(CUP)と、主として外国人が使うための兌換ペソ(CUC: Peso Cubano Convertible)とがある。誰でも、どちらの通貨を使っても良い。現在の相場は、CUC1=US$1=CUP25 である。

 出発前にこれを知り、一体どうしたら良いのだろうか、かなり困惑した。両方の通貨を、コインを含めて、右と左のポケットに分けて持ち歩くのは大変煩わしいし、混乱を招きそうでもある。さらにキューバでは、クレジットカードが使えるところは、高級ホテルおよびそこのレストランなどに限られるらしい。

 ハバナ空港に着いたとき、両替店で、とり合えずCUCのみ、最小限必要と思われる額を交換した。
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 普通のレストラン、カフェ、タクシーはCUCで支払った。各種ショップやミュジアム入館料では、CUCとCUPの両者が併記してあった。オフィス街のテイクアウト専門の小さなハンバーガー屋ではCUPのみの表示だった。結局、市バスにも乗らなかったので、CUPを所持していなくても特に大きな不都合はなかった。
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[写真:カバーニャ要塞周辺にて催されていたバザーのような臨時市場。テント内には家族連れ等が多く集まっていた。]


『(14) キューバの人々』

 キューバには、もともと農耕を営む先住民族が数十万人暮らしていたが、1492年コロンブスがキューバに到着以降、スペインの支配下で先住民を虐待し、さらにヨーロッパから持ち込まれた疫病のために、100年ほどで先住民たちはほとんど絶滅してしまった。

 先住民に代わる労働力として、アフリカから多くの人々が奴隷として移住させられた。そのような結果、キューバの現在の民族構成は、ヨーロッパ系(主としてスペイン)25%、アフリカ系25%、混血50%と推定されている(以上、DTAC観光情報局などより)。
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 混血と一言でくくっても、いろいろな組み合わせとか、血の濃さに差異があり、街で見かける人びとの容姿は非常に多様である(写真:ハバナ新市街の裏通り、一般住宅街にて)。
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 また、あちこちのウェブサイトやブログに、「キューバは世界で最も人種差別のない国と言われている」とある。その基礎は、フィデル・カストロがキューバ革命で理想として掲げた「平等社会の実現」にあるのだろう。

 なお、キューバでは、現在全国民の医療費と教育費は完全無償、識字率は98%に達している(在キューバ日本大使館による)。公共料金は非常に安い。市内の路線バスはCUP1(=約5円)である。


『(15) キューバ人の生活』

 革命を経て成立した社会主義国とはどんなものか、そうではない国とどう違うのかを、少しでも知りたいと思っていたが、わずか数日の滞在で、詳しいことが分かるはずはない。

 ハバナの町を散歩するついでにスーパーマーケットのようなショップがあれば行ってみたいと思った。ホテルで聞いたところ、近くのガソリンステーションの隣にある、とのことだった。

 そのショップは、日本のコンビニの倍程度の広さはあるが、生鮮品やハム・チーズ類はゼロ、魚・肉の缶詰はツナ缶一種類のみがずらーっと並び、ビールはなく、ワインはポーランド製のロゼ一種のみが棚一段を埋めていた。

 他は、はっきり記憶がないが、ビスケットの大袋、洗剤、粉ミルク、化粧品などだった。商品の種類が極端に少ないのは、売り切れたのかもしれない。それでも、お客は結構多かった。
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 裏通りを散策していたら(写真)、肉屋、果物屋、パン屋など、小さい店を見つけた。いずれも、陳列している品物の種類は少ない。日本でも、30-50年前までは、米屋、魚屋、豆腐屋など、それぞれ独立した店だった。それが当たり前なら、特に不便は感じないはずである。
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 キューバ人の生活について、大手商社ハバナ所長のブログ(林、2017)から要約して引用しよう。
「キューバは、学校、病院等も含めてほとんど全ての企業が国営であり、すなわち働いている人のほとんどが公務員である。平均給与は非常に低いが、物価が異常に安いというわけでもない。なんとか生活できるのは、米、小豆、砂糖、コーヒー、卵、食用油、鶏肉、ひき肉、パンなど、毎月決まった量だが超格安料金で購入できる配給制度があるからである。配給所があちこちにあり、政府の高官や、高名なお医者さんも、長い列に並んで配給を受け取るのである。」


『(16)おわりに』

 キューバには3泊滞在したが、結局1度もハバナ市の外には出かけなかった。特に名所や有名スポットでなくても、市内を歩いているだけで、新鮮あるいは驚きを感ずる場面を多く眼にすることができた。
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 写真は、ハバナ市中心付近にある旧国会議事堂(Capitolio)である。1929年、アメリカ統治下に、アメリカの国会議事堂をモデルに、大理石をふんだんに使った、高さ98 m、4階建ての豪華な建築物である。キューバ革命まで、国会議事堂として使われていた。

 今回の旅で、この3か国を選んだ理由は、移動するための空の便が比較的良いこと、治安がとくに悪くはないこと(外務省情報)の2点であり、どこそこで何を観賞し見物したいとの強い目的はなかった。

 しかし結果として、9泊10日の中米滞在中、主としてユカタン半島ではマヤ文明を、ベリーズでは珊瑚礁の海を、ハバナでは多民族の人々の暮らしの一端を見聞でき、十分満喫した思いである。
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 2月14日午後、ハバナを発ち、メキシコ・シティにて乗り継ぎ、16日早朝成田に帰着した。



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