東ヨーロッパの旅 (1)-(16)

(投稿日:2019.10.12~11.27)  
Rila 修道院.jpg [Photo] リラ修道院(ブルガリア)
(1) 経由国カタール

 9月30日深夜24:00羽田を発って、ブルガリアとルーマニアを訪問し、台風接近の直前、10月10日夜羽田へ帰着した。

 日本から東ヨーロッパの主要国へは、航空各社により、ミュンヘン、フランクフルト、パリ、ロンドン、ウィーン、モスクワなどにて乗り継ぐ便がある。

 それらの中で、ブルガリア・ルーマニアへ比較的時間のロスが少ないと思われた、カタール航空を利用することにした。ヨーロッパ往復に、北極経路ではなく、中東経由は初めてのことである。

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 写真は中継地ドーハ空港の搭乗口ロビーである。ここは、ヨーロッパ、アフリカ、中東、アジアを結ぶ重要な中継拠点と位置づけられており、多様な民族で賑わっていた。

(2) ソフィア

 ブルガリアは、南はギリシャとトルコ、東は黒海、北はルーマニア、西はセルビアとマケドニアに囲まれた、面積が日本の約3分の1の中規模な国である。

 15世紀~19世紀後半まではオスマン帝国に支配され、その後1944~1989年は共産主義政権下にあり、それらの結果、トルコとスラブの文化が混ざり合い、東ヨーロッパの国ではありながら、オリエンタルな雰囲気も感じられる国である。

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 首都ソフィアは、平均標高550 mの高原にあり、ヨーロッパの首都としてはマドリッド(標高667 m)に次ぐ高所である。人口は125万人で、ブルガリアの総人口の18%がこの都市に暮らしている(写真:ソフィア市街中心部付近)。

(3) アレクサンドル大聖堂

 ソフィア市内には、他のヨーロッパの都市も同様かもしれないが、観光名所となっている教会が多い。

 外務省によると、ブルガリア国民の宗教は、大多数がブルガリア正教(ギリシャ正教等が属する東方キリスト教の一派)で、他にイスラム教徒、少数のカトリック教徒、新教徒など、である。

 そのブルガリア正教を代表する最大の教会で、ガイドブック等でも必ずお薦めのスポットとして紹介されている施設がアレクサンドル・ネフスキー大聖堂(Alexander Nevski Cathedral)である(写真:10月2日)。

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 1904~12年建造なので、それほど歴史的に古い建造物ではない。しかし、高さ60 m、5000人収容可能という大きな聖堂、および豪華爛漫な外装と内装、巨大な鐘、壁画など、確かに見ごたえがある。

 なお、日本語のガイド本やサイトによっては、アレクサンダル・ネフスキー寺院と呼んでいることもある。寺院だと、仏教かイスラム教のように感ずるが、パリのノートルダム(Cathedral Notre-Dame)も寺院と言うこともあるので、両者は同じもので、大規模な教会を指すようである。

(4) セルディカ遺跡

 首都ソフィアの中心部、2路線の地下鉄が交差するセルディカ駅前に、写真のような遺跡がある。周囲の地上レベルから1段低く、一応フェンスで囲まれているが、中に入ろうと思えば容易である。

 ここは、地下鉄工事の際発見されたもので、古代の城塞都市セルディカの遺跡である。ここで見られるものは、ローマ帝国治世下の2世紀から14世紀頃にかけて築かれた城壁や門の一部だそうである。

  都会のど真ん中で、工事現場のように、無造作に遺跡が“展示”されていることが、ブルガリアらしいのかもしれない。

 この遺跡は、付近の旧共産党本部ビルディング前の地下に続き、そこでは博物館的に見て廻れるようになっている。

 なお、写真の中央奥に見えるドームと尖塔は、ソフィア市に唯一現存するイスラム教のモスク(寺院)バーニャ・バシ・ジャーミヤである。

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(5) 共産党政権時代

 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)は、1922~1991年、ロシアおよび周辺のバルト三国、ウクライナ、カザフスタンなど計15か国で構成されたユーラシアの超大国だった。

 ブルガリアは、第二次世界大戦後の1946~1989年、共産党独裁政権が続き、対外的には東ドイツやチェコスロバキア等とともに、ソ連の影響を強く受ける衛星国となった。その中でもブルガリアのソ連への親密度は高く、実質的には「ソ連16番目の共和国」とも称された。

 当時のブルガリア経済や社会情勢がどうだったのか、詳しい知識はないが、ソフィア市内の所々に、大きくて頑丈そうなソ連らしい建築物が見られた。

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 写真は、ソフィア市郊外、ヴィトシャ山麓の住宅街にある、ソ連時代建設の集合住宅である。各棟とも、13階~15階程度で、古いけれど居住には問題なく、安価のため、庶民に大いに利用されている、と聞いた。

(6) リラ修道院

 ブルガリア正教会のこの国最大のリラ修道院(Rila Monastery, 僧院とも言う)は、ソフィアの南120 km、標高1150 mの高原にある。ソフィアから日帰りバスツアーに参加した。

 リラ修道院は10世紀に創設されたが、1833年の大火事により大半は焼失し、その後1834年から約4年間に重要な建築物は復元、あるいは新たに建設された。

 最も主要な施設は聖堂(写真右、ドーム状屋根)であり、入り口の白黒横模様のアーチの柱の内側の外壁と天井全面に、さらに聖堂内部の壁面にも、色彩豊かなフレスコ画が描かれている。

 聖堂奥の四角い塔はフレリョの塔、大火を免れたので、14世紀建設時の姿である。写真左側の建物の一部は、宗教の歴史博物館、およびかつての修道院の生活を展示する資料室となっている。

 修道院では一般人も宿泊できる、とガイドが言っていた。帰国後ネットで調べたら、いろいろ紹介記事や滞在記が見つかった。各部屋には、質素なベッドが2,3あり、トイレは共用、一人1泊1500~2000円程度であり、宿坊というよりは、簡易宿泊所のようなものらしい。

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 写真の遠景は、ブルガリア最高峰(ムサラ山、2925 m)があるリラ山脈の一角である。

(7) 古都プロヴディフ

 ソフィアの南東125 km、南北2つの山脈に挟まれた平野に、6000年前から交通の要衝として栄えた古都プロヴディフ(Plovdiv)がある。現在は、人口35万人のブルガリア第2の都市である。

 ブルガリアでは主要都市間は鉄道で結ばれているが、長距離バスの方が、1日の本数が多く、所要時間も短い。急行バスにて2時間余で、ソフィアからプロヴディフへ移動した。

 プロヴディフ市街の中心付近に、ローマ帝国時代(概ねBC1~AD7世紀頃)の遺跡がたくさんある。写真の手前は、ローマ公開会議場跡である。

 その横の中央広場から歩行者天国道を500 mほど進むと、半地下にローマ競技場跡の一部が保存・展示されている。2世紀前半建設で、陸上競技が行われた。

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 写真右手の丘の上に旧市街があり、その左側の崖の麓にローマ円形劇場跡(2世紀建設)が見える。

 新市街は、写真の枠外左に広がっている。プロヴディフ市中心の標高は164 m、丘の頂部は250 mである。

(8) プロヴディフ旧市街

 プロヴディフの旧市街は、500 m四方くらいの広さの中で、3つの丘を被っている。道は自動車が通れるが、石畳の凹凸が激しい上に、急な坂が入り組んでいるので、地元の車しか入り込まないようである。

 多くのツアー観光客は、丘の麓にバスを止め、ガイドの先導で歩いて見て回っている。

 この旧市街の家屋は、ブルガリア民族復興期(18~19世紀)の富豪の住居や邸宅であり、現在は建築保護区域内のため、各家屋は修復の上、保存されている。

 それらのいくつかは、古民家や豪邸として公開され、いくつかは博物館や美術館、資料館になり、また民芸品店、地元特産品店、カフェ、レストランなどに利用されている。

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 写真は、紀元前4世紀に建てられた要塞門「ヒサル・カピヤ」。その横の珍しいカラフルな建物は元トルコ人豪富の家で、現在は「ブルガリア民族復興博物館」となっている。出窓が大きく突き出ている構造が特徴的である。

 旧市街の迷路のような石畳の道沿いがまさに野外博物館のようであり、さらに建物の中に入ると、屋内は豪華であったり、珍しい、華麗な調度品や装飾品を目にすることができる。

(9) 半地下の店

 プロブディフの駅前通りで、半地下の商店を数軒見かけた。写真の2店とも靴屋である。右は婦人靴、左は運動靴や作業靴のように見える。左中央には、店主らしき人が座っている。

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 なぜ半地下なのか?もし1階も2階も店舗の場合、1階を半地下にし、2階を中2階にすれば、通りを歩く人からは店の中がよく見え、入りやすいのかもしれない。それなら、日本にもある。

 しかし、プロブディフの例では、2階は店ではなく、住宅である。左右で家の構造が少し異なる。

 ネットで調べていたら、以下のような説明が複数あった。
「半地下を持つ建物は、ヨーロッパの多くの地域に見られるものです。冬が厳しいために、その昔は、半地下にボイラーや厨房を設置し、暖かい空気は上階へと回ったと言います。半地下であれば、運んできた燃料を下ろすのも楽だったといわれています。」(グランドレベル ディレクター)

 たしかに、薪や石炭やコークスを燃料とした暖房では、配達された燃料を家の中に入れるのに、半地下は便利だったことは十分想像がつく。

 ここの駅前通りでは、古い住宅を店舗に改装したものと思われる。

(10) キリル文字

 ブルガリアの公用語はブルガリア語である。人々の会話や、アナウンスや、テレビで聞くと、ブルガリア語は、イタリー語とも、ドイツ語とも、ロシア語とも違う感じがするが、どこの国の言葉に近いかは分からない。

 しかし文字は、ヨーロッパの多くの国が依拠しているラテン・アルファベット(a, b, c, ……)ではなく、ロシア語などと同様のキリル文字である。前報(9)の写真にて、店頭の縦書き看板に表示されている文字がキリル字で、ブルガリア語の「シューズ」である。

 ロシアと同種のアルファベットを使っているということは、ロシアの影響が非常に強かったと思いそうになるが、キリル文字はブルガリアで発展し、10-11世紀にロシアに伝えられて、そこで書きことばの模範となり、今日、ロシア語などの表記に使われるようになったそうである(「地球ことば村」を参考)。

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 写真は、ソフィア中心街の歩行者天国道であり、左の看板はキリル字で書かれた案内標識である。

 学生時代にロシア語を少しだけ学んだことがあるので、キリル字を、意味はわからなくても、近い音で発音することはできる。だから、英語からの外来語(例:PECTOPAHT=レストラン)などは、何とか分かる。

(11) ルーマニア・ブカレスト

 ブルガリアに5日間滞在した後、10月6日、ルーマニアの首都ブカレストへ移動した。

 ブルガリアとルーマニアは国境を接し、両国の関係が悪いわけではないので、仕事とか観光で行き来する人は少なくないと思っていたのだが、飛行機の便を探していたところ、ソフィア~ブカレストはルーマニアの航空会社タロムが1日1往復しているだけ、ということが分かった。

 他の人たちは、長距離バス、鉄道、車などを利用するか、ヨーロッパの都市を経由する三角形の2辺のルートを辿る以外にはない。

 ルーマニアの民族は、ルーマニア人89.5%、ハンガリー人6.5%、他4%である(在日ルーマニア大使館による)。そのルーマニア人は、東ヨーロッパで唯一ラテン系の血を引き継いでいるそうである。そう思ってみると、ルーマニアにはイタリー人などラテン系の人々が多いように感ずる。

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 ブカレストの人口は212万人で、ソフィアより大分多い(1.7倍)。写真は、ブカレスト市街。10月上旬だが、初冬の感じである。

(12) シナイアの城

 翌7日、ブカレストの北150 kmにある、小さな古い町シナイアを訪れた。急行列車で2時間弱、日帰り旅行である。

 シナイアには、17世紀建立の僧院や城、宮殿風の館が保存されている。また、カルパチア山脈の中腹、標高800 mの高原にあり、夏は避暑地と山岳トレッキングの基地、冬はスキーリゾート地として賑わう。

 この度、この地に来る第一の目的は、ロープウエイにて標高2000 mまで上がり、付近をハイキングすることだった。今回の旅行で、「山」「自然」「散策」を満たすのは、シナイアのみであった。

 同日昼前、シナイア駅近くの観光案内所を訪ねたところ、「山は前夜から雪で、今日はロープウエイ運休。明日は大丈夫だ」とのことであった。

 次の選択は、古都を歩いて散策することである。まず、この町で最も古いシナイア僧院と教会を見学。そこからゆるい坂道を数十分歩くと、林の中から城が見えてきた。

 まず初めは、ルーマニア王室の夏の離宮だったペレシュ城である。19世紀末建設で、ルーマニアでもっとも美しい城とも言われているそうである。

 次は、その奥の林の切れ目にある、王の狩猟用の館として20世紀初頭に建造されたペリショール城である(写真)。中世ドイツ風の木組み造りの建物で、大変趣きがある。

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 ところで、この城の入り口にて「月曜日:休館」を知った。そこまで考えが及ばなかったが、日本でもままあることである。やむなく、城の外観のみじっくり眺め、あたりを散歩してから、引き返した。

(13) ブカレスト旧市街

 ブカレスト市の中心付近に、旧市街と呼ばれている地区がある。ここは、歴史的建造物や古住宅を補修し、保存する、いわゆる「重要伝統的建造物群保存地区」(例えば、鳥取県では、倉吉市打吹玉川 <商家町>)とは少し違う。

 ブカレストのこの地区は、かつて美しい街並みを誇っていたそうだが、第二次世界大戦の戦火で多くが焼失してしまったため、後に、昔の面影を残しつつ、再開発された市街である。

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 写真は、旧王宮跡に隣接する、ルーマニア正教会のクルテア・ヴェケ教会。16世紀建設のブカレスト最古の教会で、消失後完全に修復され、現在も教会である。教会裏手には式台があり、多くの地元民か旅行者がロウソクを捧げていた。

 このほか、旧市街には、各種史跡、商店通り、レストランやカフェが並び、外国人観光客が多く訪れている。

(14) 元大統領の巨大宮殿

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 ブカレスト市内の統一広場からまっすぐ伸びた大通りの突き当たりに、巨大なビルディングが聳えている。写真は北側面で幅235 mあり、正面(東側面)は幅275 mで、地上から全景写真を撮れる地点がない。

 共産主義時代の独裁者チャウシェスク元大統領が、贅の限りを尽くして建設させた宮殿で、地上10階、地下4階、延べ床面積33万平方メートルは、ペンタゴン(米国防総省)に次いで世界で2番目の規模だそうである(LINEトラベルJPによる)。

 そのチャウシェスク元大統領は、宮殿完成前、ルーマニア革命(1989年)にて逮捕、銃殺された。

 館内の見学者は、受付でグループに分けられ、ガイド付きのみが認められている。だから、勝手に好きなところを見るわけには行かない。
 
 宮殿内部には3000を超える部屋があり、大理石をふんだんに使い、カーペット、シャンデリアなど、粋を尽くしている。現在は、ルーマニアの政党のオフィスや、会議室、展示室などに利用されている。

 この建物は、日本語のガイド本やサイトでは「国民の館」と呼ばれている。ルーマニア語の名称を直訳するとそうなるのであろう。しかし、実際は、生活が苦しかった当時の一般国民とはまったく無縁で、国民のためではない、莫大な浪費の産物だったようだ。

(15) ルーマニアの料理

 若い頃は別にして、近年は外国へ行ったとき食い道楽はあまりしない。そもそもレストランの料理は一人分の量が多いし、ふだん食べ慣れないものをたくさん食すと、コンディションを崩す心配があるからである。

 したがって、ブルガリアとルーマニアの伝統料理などをいろいろ紹介することはできないが、少しだけ見たり、食べたりしたものについて触れよう。

 ブルガリアの大衆的な食べ物は、挽き肉を棒状にして炭火で焼いたケバプチェというものである。これは、トルコなど中東で一般的な串焼きのケバブと同類であろう。

 なお、ブルガリアというと、日本ではヨーグルトが有名だが、たしかにブルガリアではヨーグルトの消費量は多いそうである。

 ルーマニアの家庭料理の典型は、サルマレという挽き肉をキャベツで包んでよく煮込んだロールキャベツである(写真:ブカレストの庶民的郷土料理店にて)。

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 付け合せの白っぽい団子は、トーモロコシの粉を丸めて蒸したもので、ふわっとした歯ざわりで、肉料理によく合う。

(16) ブカレストの凱旋門

 ブカレスト市中心部から郊外の住宅地や国際空港へ至る幹線道路の途中に、ブカレストの凱旋門(Triumphal arch:写真)がある。第1次世界大戦後(1922年頃)、ルーマニア統一を記念して建てられたものである。

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 写真を見比べてみると、パリの凱旋門(1836年建設)とよく似ている。パリは高さ50 m、幅45 mに対し、ブカレストは高さ27 m、幅25 m(Atlas Obscura)なので、門正面の面積は約1/3と小さいが、デザインは模したと言われている。

 ブカレスト凱旋門の周囲は車で混雑しているが、都心から離れていることもあり、パリ凱旋門のように観光客があふれる、ということはない。

 * * *

 ブルガリアとルーマニアには、世界のトップ10や20に入るような有名で人気の観光スポットはないが、毎日、味わい深いサイトや施設を巡ったり、思いがけないことを見聞きした、充実の9日間だった。

 10月9日深夜ブカレストを発ち、ドーハで乗り継ぎ、10日夜遅く羽田着、11日昼鳥取に帰着した。


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